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「工藤俊作 武士道精神の人」文芸春秋スペシャル(2008年5月)

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『文芸春秋スペシャル」-日本人へ 私が伝え残したいこと-』

工藤俊作 武士道精神の人
英国兵四二二名を救助した駆逐艦「雷」艦長
恵 隆之介

一.昭和の軍人も評価されるべき!

現在我が国には昭和の軍人全員を批判的に見る史観が定着している。

ところがこれに風穴を開ける一つの史実が旧敵国からもたらされた。しかも日本海軍と交戦した元英国海軍士官からである。

平成九年四月二十九日付「英ロンドンタイムズ」に、大東亜戦争中に帝国海軍駆逐艦「雷」(一六八〇トン)に救助された元英海軍士官が、命の恩人である艦長の工藤俊作中佐を紹介しながら、「友軍以上の厚遇を受けた」と言う体験談を掲載した。

投稿者は、元英国海軍中尉で戦後英国政府外交官として活躍したサー・サムエル・フォールである。彼はその功績により英国女王から「サー」の称号を贈られている。

ところでこの投稿にはかなりの勇気が必要であった。

戦後の日英関係は一見順風満帆のように見えるが、大東亜戦争中、帝国陸海軍に捕虜になった一部旧英国軍人たちが、当時の処遇に不満をもっており、現在でも強烈な反日運動を展開している。

折しもサー・フォールが投稿した翌月は、天皇陛下の英国訪問が予定されており、英国国内にはこの元日本軍捕虜達が中心になってご訪英を阻止しようとする運動が発生していた。

「ロンドンタイムズ」には、サー・フォールの投稿文と並んで、元日本軍の捕虜が投稿した一文が掲載された。内容は全く対立するもので、戦争責任を今上天皇にさえ追求すべきと言う過激な内容であった。

ところがサー・フォールの文章によってこの文はことごとく生彩を欠くことになる。

前文が少し長くなったが、英国国民を感動させた駆逐艦「雷」による救助劇とは

二.決死の敵兵救助劇!

昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。

翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷」に発見されたのだ。

一方駆逐艦「雷」は直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じられ単艦でこの海面を行動中であった。

「雷」乗員は全部で二二〇名、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。

救助を決断した「雷」艦長工藤俊作少佐(当時)は四十一歳、山形県出身、当初は敵将兵の蜂起に備え、軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していた。

ところが艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入した。

一部英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、内火艇(艦載ボート)で救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。

ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。

一方サー・フォールは、当時の状況をこう回顧している。

「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。その瞬間、「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚されボートが下ろされたのだ。

サー・フォールはこの瞬間から夢ではないかと思い、何度も自分の腕をつねったと言う。

一方「雷」艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。

日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。

当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。

戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。

さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。 三.「武士道」は不滅 救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。 「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。 今年七月、サー・フォールは来日し、日本人有志と共に工藤艦長墓前で顕彰祭を挙行する。サー・フォールが戦後六十三年抱き続けた工藤艦長への思いはここに達成されるのである。 (10月に変更)。

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