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沖縄よ、振興策に甘えるな 「Voice」(1999・平成11年5月号)

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米軍基地という"担保"を失う前に改善すべき四項目



平成四年九月政府決定の第三次沖縄振興計画は、残すところあと三年となった。本土との格差是正、自立的発展の基礎条件の整備などが骨子となってはいるが、はたしてその目標は達成されたであろうか。
最近、地元紙『琉球新報』(平成十年十二月二十三日付)に次の投稿があった。
「古里恋しの心抑え難く毎年一、二度帰省するがそのたびに、沖縄はとても豊かで、人々はぜいたくだなぁと思う。私見だが全国一の失業率の割には、県内どこの地域に行っても、それほど就職に苦しむ人の姿は見られない。<中略> 私の住む大阪では、働き盛りの若者達が、職業安定所に列をつくり、ホームレスの人々が町にあふれている。しかし沖縄では、私の生まれ島の宮古の離島や、やんばる(注・山原、本島北部地域)で住む人のない家屋が空家と化しているのをよく見かける。それほど沖縄は住生活においても食生活に劣らず、他県に比べてぜいたくであるように思う。<後略>」(「異郷で沖縄を思う」東大阪市在住、元長栄氏、七十三歳)
このような状況でありながら、「沖縄振興」という文言が依然マスコミを賑わしている。とくに大田知事落選以来、沖縄は基地問題にかわって振興策が一層声高に叫ばれるようになってきた。所得一千万円以上の高額所得者の数(人口一万人比)ではすでに四十七都道府県中十八位にありながら、県民総支出に占める国の補助金の比率は、昭和四十七年(復帰時)の二三・六%から平成七年には三四・二%と、一〇・六%も上昇している(全国平均補助率約一八%)。今後は沖縄自立のため、従来の振興策を根本から見直す必要があるのではないだろうか。その前に沖縄の歴史を検証してみたい。
沖縄史は魔性の歴史である。廃藩置県当時、琉球は日支両属の政体をとっていた。わが国は清国の干渉を恐れて沖縄近代化に思い切った処置がとれなかったばかりか、その支配者層を懐柔するため旧慣を温存し厚遇した。加えて琉球士族らは、既得権の維持に固執し政府の近代化策をことごとく妨害したのだ。
日清戦争によって清国が敗北するや、沖縄はたちまち政治的担保を失い、かつわが国は朝鮮、台湾等の植民地開発へ国力を傾注することになった。このため沖縄政策はまた放置された。
ところで現在、沖縄には米軍基地という政治的担保がある。このため政府は沖縄の要求を聞かざるをえない。しかし今後の極東情勢、あるいは軍事技術の進歩いかんによっては、それが大幅に縮小される可能性があるのだ。いまこそ県民は自立するに足る社会構造の構築に真剣に取り組む必要がある。以下、この観点に立って改善すべき四項目を列挙し、私見を述べる。

まずは新聞再販制度の適用から

北海道はかつて『北海道新聞』が圧倒的シェアを占めていたが、読売新聞社が昭和三十四年五月に札幌支社を開設し、同時に現地印刷を開始した。その結果、地元紙との競争も始まり、最近では北海道庁の不正経理問題が同社によって摘発されるなど、道内のマンネリ化現象を是正することができた。
沖縄を振興するには、このようにまず県民に多元的な情報を提供することだ。
ところが沖縄では『沖縄タイムス』『琉球新報』の地元二紙が県内合計シェア九七%を占めており、紙面構成も本土紙と対照的に、記事対広告の比率が四対六となっているばかりか、両紙とも県内事情に固執している。とくに基地問題や過ぎし沖縄戦への論述が多く、最近のユーロの発足さえ両紙には論述が見出せなかった。
また本土紙は空輸に頼っており、県都・那覇市でさえ日刊は半日、夕刊にいたっては十九時間遅れて届く。わが国新聞業界がテーゼとする新聞再販制度「国民の誰もがどこに住んでいても同一紙は同一価格で、迅速確実な戸別配送により、どこでも誰でも公平かつ容易に好きな新聞を選択購読できる」(日本新聞協会会長、小池唯夫毎日新聞社社長)が沖縄にだけ適用されていない。県内ビジネスマンのなかには本土紙を早朝、東京からファックスで取り寄せ、繋ぎ合わせて読んでいる者もいる。とくにビジネスには情報が勝負だ。半日から一日遅れの情報では本土と競                               争にならない。
ところで地元紙は経営面でも特異なものがある。価格は、本土紙が航空運賃の加算もあって地元紙より平均二四%も高いのだが(九州版比較)、地元紙の定期購読を始めると本土スポーツ紙がサービスとして無料で配布される。本土復帰にともなう特別措置で税法上の特例措置があるため、このような経営ができるのであろう。
もう一つ問題がある。両紙の社説を含め紙面で使用される語▲がきわめて少ない。これでは言語の面でも他府県出身者とのコミュニケーションに不足が生じてくる。とかく沖縄社会は縁故主義(ネポティズム)が強く、戦前からコミュニケーションへの配慮は希薄であった。このため県民の標準語の励行が長く叫ばれてきたのだ。
昭和三十年八月、琉球大学が招聘した東京からの教授団山根団長以下二十九名は、沖縄教職員と対談した印象として「沖縄教員の要点把握力、表現力が弱い」と指摘し、その原因として「会話のなかで語▲が少ないこと、教職員の読書量が少ないこと」などの点を挙げている。
最近、新たな事実が発覚した。平成八年九月十日、橋本首相が大田昌秀知事(いずれも当時)が沖縄米軍基地用地強制使用のための広告・縦覧手続きの代行を応諾したことにより、沖縄振興特別調整費五十億円の支出を臨時閣議で決定した。そして国は県の要望に基づき、その一部十一億円を「雇用創設資金」の名目で県の自由使途としたのだ。
一方、十年九月、地元某新聞社は新社屋をつくることとなり約七十億円の資金が必要となった。そこで、当時、沖縄県庁は十一月十五日に知事選を控えていたこともあって、この新聞社に雇用創設の名目で資金の一部六億五百万円を無利子でしかも十五年サイトで融資したのある(当時三年間、返済据え置き)。県は、紙面広告でも地元新聞社にとっては上得意である。当時、銀行の貸し渋りで資金がタイトになっていた地元企業からは怨嗟の声が上がった。また、本土紙の記者のなかからは報道の客観性が失われると批判の声さえ上がったのだ。

箱物行政では教育問題は解決せず

明治三十四年、沖縄教育会発行の雑誌『琉球教育』に沖縄青少年の無気力が問題提起されている。本土では四民平等の太政官令がすでに配布され、青少年が新たな時代に向かって学業に専念しているころである。当時、沖縄青少年はこれを知る由もなかった。昭和を迎えると、地元青年のなかに、貧困を国の差別政策と曲解し、アナーキー運動が生起してくる。昭和二十八年に北京で客死した元日本共産党書記長・徳田球一氏(本島北部・名護町出身・当時)が、その代表的人物だ。
戦後、本土では公立学校教員の政治活動を禁止する教育二法が昭和二十九年六月に公布された。ところが琉球立法院は同様な法令の立法を試みたものの沖縄教職員会や労組、反戦団体の執拗な阻止行動にあって断念し、昭和四十七年五月の復帰まで教職員の政治活動は放置された。とりわけ主任制は、昭和五十六年四月になってようやく実施されたのだ。その結果、学校現場は著しく荒廃し、教職員でさえ、子女を中学のころより県外へ進学させた。
坂田道太文部大臣(当時)は昭和四十五年九月十八日、教育事情視察のため沖縄を来訪したが、その偏向教育を厳しく批判した。一方、昭和三十八年一月、倉沢栄吉文部省視学官以下二十四人の教育指導委員は、当時の教育事情をこう要約している。
? 沖縄の子供達は余り勉強をしない、とくに高校生がそうだ。某高校を訪れて教師達と話しあったが、数学などの話はひとつも出ず、ずうっとどうしたら勉強するかといったものばかりであった。学習意欲の面で指導者も十分に考えなければならない。
? 大学進学率を考えても、現状は特恵処置によって辛うじて維持されていることを忘れている。国費、自費留学生制度で本土より程度の低い試験を沖縄で実施されているのだ実態だ。学習意欲のある生徒は現在のところ、特定の学校の更に特定な生徒しかいない。これでは本土に追いつけない。
? 躾面での厳しさが足りない。言語、礼儀、とりわけ始業の鐘がなってもクラスに行こうとしない。だらだらして、そうかと言うとすぐ教室に土足で上がる。最近中学生の犯罪が過去平均の三倍になっているというが、裁判所でその原因を調べてみたら授業が嫌と言っている。教員はもっと反省すべきではないか。

戦前も、沖縄青少年の教育については物議をかもしていた。これがため沖縄出身者は移民や出稼ぎ先で県外出身者とたびたび齟齬を来たしていたのである。危機感をもった県民は浄財を募り昭和九年六月十一日、那覇市若狭に開洋会館を開設した。移民を希望する若者を対象に寮生活を行わせ、そこで徹底した機会教育を実施したのだ。当時の指導員は学校教員やOBがボランティアであたり、若者と起居をともにしながら再教育するというカリキュラムであった。
ところが、また教育問題が沖縄の最重要課題となってきた。
沖縄県警によると平成十年中に補導された少年は二万三千七百十一人を数え、前年同期比二五・六%増加、そのうち凶悪犯も前年の二倍にのぼり人口一万人比では全国一位である。また沖縄教職員のモラルは低落しており、不祥事件が多発している。女子生徒への暴行、飲酒運転による生徒ひき逃げ、父兄への不当な金銭要求など、平成十年度は十月までにすでに十件を超え、例年の二倍を突破しているのだ。今年一月、県内大学卒業予定者の就職内定率が発表された。全国平均八〇%を記録しているものの沖縄は二六・六%と低迷している。原因は学生に就労意欲がないこと、父兄を含めての県外への就職を忌避していることが挙げられる。
現在、沖縄米軍基地問題懇談会(座長・島田晴雄慶應大学教授)が「沖縄こども未来館」の建設を進めている。用地取得費だけでも約三億円という大型プロジェクトだ。館内にテーマパークを設置し、もって青少年の向学心を誘引しようとするものである。しかし、沖縄の教育現場はもはや従来の箱物行政では問題解決にならないのだ。早急に教師の質そのものを変革する必要がある。
では、どう対処すればいいか。
戦前、わが国で行った朝鮮、台湾への教育投資の手法を踏襲することだ。戦前、これらの地へ赴任すること本棒に手当が七割加算されたばかりか、十五年でついた恩給が十年に短縮されたのである。このため、優秀な教育人材は続々と両地へ赴任していったのだ。そこで県が主体となって各県教育委員会より実績のある教員を選抜させて一定期間沖縄へ招致し、かつこのような厚遇策をとることだ。
そうすれば、県教育界への刺激にもなり、日本人としてのアイデンティティも醸成される。なによりも県民のヒポコンデリー状態(自分だけが被害者だと思い込んでうつ状態に陥る現象)も打破できるのではないだろうか。
もう一つは、現行の教育システムの改革である。全体的な教育水準のレベルアップも緊急の課題であるが、それでは県の標榜する国際化に間に合わない。県下に一校はエリート校を指定し、シンガポールのように各小学校の四年次から優秀な生徒をそこに集め、英語、コンピューターなどの高等教育を行う。また、中学校からは英国のパブリックスクールのように全寮制にして徹底した躾教育を行うことだ。外国人教師は、現在県内に居住する米軍基地内大学やアメリカンスクールの米国人教師計八百名のなかから招聘すればコストもかからない。
シンガポールのように英語が県内どこでも通用し、県民のほとんどがコンピューターを駆使できるようになれば、沖縄経済のポテンシャルはその地勢的優位性とともに飛躍的に向上する。
長野県小海町などでは、すでに町の公共事業費を削減して教育投資にあて、独自の教育行政を行っているのだ。

五十三市町村を四市郡に

沖縄には琉球藩時代の遺物がある。現行の沖縄の行政区である。
明治三十六年十月、明治政府は琉球藩独特の統治システム、土地共有制(地割制・原始共産制)を廃止して農民による土地の私有制を開始する。そして四十一年四月一日、勅令により沖縄県および島嶼特別町村制を施行した。ところが、これは旧藩時代の行政区を踏襲しており、沖縄行政区は二区四十六村となった。しかも村頭(いまの村長)には、ほとんどが旧藩時代の間切り番所役人が就いていた。また翌四十二年五月には特別県制が施行された。特別となったのは、土地私有制の開始によって農民の生産意欲は高まったものの、中年以上の識字率が本土と比較してきわめて低かったため、一般県制は困難であったからだ。
ところが、大正五年ごろより『沖縄朝日』をはじめとする地元紙が本土並みの一般県制および市町村制の早期実現を要望するキャンペーンを展開、県内は一般県制を求める言動一色となった。こうして大正九年五月二十日に一般県制が実施された。ところが、そこに大きな県民の錯誤があった。他府県にような市町村の統廃合を行うことなく、制度だけを真似したのだ。ちなみに本土では廃藩置県当時、三府三百二県あったものが、明治四年十一月には三府七十二県に統合され、また町村も明治二十一年の市町村制の公布前に七万以上あったものが一万五千に統合されている。ところが、沖縄は一般県制施行時、かえって二市三町五十村と総数で増加していたのである。
明治二十七年当時、内務省の調査資料によると県下行政区平均吏員数十八人を数え、本土類似団体に比較して十一人多く、平均給与も沖縄が平均八一・七銭と本土平均の約二倍にも達していた。
話を大正時代に戻そう。沖縄市町村は一般県制移行によって特別補助費が削減され、加えて大正十三年には折からのバブル経済の崩壊を受け、財政が次々に破綻した。そして、役場職員のみならず義務教育課程の教員の給与さえ不払いとなり、閉鎖される学校も出た。沖縄社会は、近代化どころか衰退の一途をたどっていったのだ。
沖縄はこの歴史の教訓をまったく学んでいない。沖縄の行政区は現在、五十三市町村を数えている。本土では戦後も昭和二十八年から三十一年にかけて市町村合併促進法、新市町村建設促進法が施行され、約九千五百あった町村が三年間で三分の一の三千五百に統合されている。一方、戦後の沖縄でも,琉球政府が四十四年十二月域内市町村に統合する計画を策定し、また前後して若干の市町村の統廃合も行われた。ところが沖縄独特の門中意識と地域主義が障壁となって、その計画は実現されていない。そればかりか、戦後の沖縄は日米領国政府の援助もあって、人口が急増し、一市二町五村が新たに発足している。
したがって、沖縄の市町村は基地面積を減じなくても狭小である。平成十年九月現在、市部全国平均面積一六五・九八平方キロメートルに対し沖縄は七二・七六平方キロメートル、町村部にいたっては本土平均一〇三・八三平方キロメートルに対し、なんとその三分の一の三五・七六平方キロメートルにすぎない。しかも役場職員の数が本土類似団体(人口千人あたり)に比べて約一割から二割多く、ラスパイレス指数が百を超える市町村が県下に八つもあるのだ。加えて、沖縄県は平成元年に生活保護世帯が一万三千軒を超え、平成七年には人口千人あたりの被保護実人員でも全国五位にある。
現在、沖縄の特徴は、狭小な行政区と対照的にひときわ目立つ大型の市町村庁舎が林立していること。さらには、県をはじめ六市三町五村が計二十七の第三セクターによる事業を経営しており、十八以上のそれが漫然と赤字経営を行っている。これでは、いくら国が補助金を交付しても固定費をまかなうだけで精一杯の状況にあるのだ。
ところで、これほどまでに沖縄の行政問題が放置された原因は、どこにあるのか。それは基地問題に転嫁して真剣な議論を回避してきたことにある。一例を紹介する。極東最大の米空軍嘉手納基地に隣接する嘉手納町だ。
ここは旧陸軍中飛行場が戦後拡大され、米空軍が建設された。その際、住民は基地からの収入が確保できることもあって二十三年十二月に北谷村(当時)から独立して嘉手納村を設立、さらに五十一年一月には町制を施行した、ところが同町の総面積はわずか一五・四平方キロメートルしかなく、しかもその八二・九%が基地のなかにある(実質町面積は二・五平方キロメートル)。このため県は、四十八年六月に市町村合併計画に基づき、同町に対し隣接の読谷村(面積三五・一七平方キロメートル)との合併を勧告したが、無視された。現在、同町は水道行政でさえ沖縄市に依存しており、財政自体も約八〇%が基地交付金をはじめとする国庫補助に依存している。
町長は「町民は米軍基地があるがために打ちひしがれている」と発言、国に直訴して地域活性化のため那覇防衛施設局を同町に移転させることになった。また、昨年十二月、同町は基地所在市町村への傾斜配分交付金を利用して、町内に使用を限定した商品券まで発行している。ところが同町商店街が停滞している原因は近隣北谷町に大型店舗ができたことであり、さらにはドル安でかつてのように米軍関連収入が低下したことにあるのだ。
では、基地なければどうなっていたであろうか。北谷村嘉手納の大半は明治四十三年七月まで琉球藩主尚家所有の土地でもあった。そこへ本土資本の製糖工場が建てられ、また翌年には那覇より県立二中(現在の県立那覇高校)が移転設立された。このため同地域は一時盛況を呈するかに見えた。ところが昭和五年ごろより製糖工場と住民の対立が激化し、そこへ共産主義勢力までもが介在した。その結果、小作争議および工場内の労働争議が頻発、工場の生産性は低下の一途をたどる。また二中への進学者も激減し、大正七年には廃校寸前になった。
  現在もし、この製糖工場が存続していたならば、折からの農作物自由化の波を受け、廃業に追い込まれていた可能性は否定できない。かつて当地はマラリア、フィラリアなどの寄生虫病が蔓延し、住民は塗炭の苦しみを舐めていた。戦後、米軍政の結果これらの害虫は根絶され、人口も増加したのである。        
  嘉手納町長の行政手腕は評価されて然るべきだが、基地交付金などのメリットをより広域的に運用すれば本当中部全域の活性化にもなるのだ。
  以上一例を示したが、今後、県は県民への啓蒙活動を積極的に行い、市町村の統廃合を促進しなければならない。その範囲は沖縄が観光地としてよく引用するハワイの行政区に倣って少なくとも四市郡に統合すべきである。(ハワイ人口百二十九万八千八百人、平成八年現在)

 鉄道建設による人口の適正配分

 沖縄本島を縦断する本格的な鉄道を建設することは、県民の戦前よりの悲願であった。戦前は県営の軽便鉄道が本島中部の嘉手納まで敷設されていたが(沖縄戦で消滅)、当時の県の財政力では、それさえようやく維持する状況であった。昭和四年には、帝国議会に地元選出代議士がその国営化を陳情している。
  沖縄本島の人口は百十九万八千七十八人、うち約八一%が中南部に居住している。しかも本当は長方形の形をしていて、県都・那覇市に空港、港湾などが集中し、それがほぼ本島の南端にある。このため島のポテンシャルを高めるには本島北端まで鉄道を建設することが急務である。とりわけ南部地区人口密度千五百四十人(一平方キロメートルあたり)、最近有名になった普天間海兵航空基地のある中部が千六百七十人。これに対し、北部など人口密度わずか百五十一人である。一方、沖縄の人口増加率四・二%は全国一であり、この人口偏在に拍車をかけている。しかも車依存社会の沖縄に,最近は観光用レンタカー約八千台が那覇を中心に稼動するようになっており、中南部における交通渋滞は産業振興に大なる障害となってきた。
  沖縄本島における人口の適正配分の必要性は、もう一つの事由がある。沖縄では大地震の発生とそれによる津波の危険性が絶えず指摘されてきた。そのメカニズムは、琉球海溝付近にあるフィリピン海プレートに歪められたユーラシアプレートが復元するときに起こるのだ。沖縄本島がそのプレートの縁にあるため、阪神大震災のような直下型地震も十分起こりうる。
  去年五月に石垣島沖合いでマグニチュード七・六の地震が発生、明治四十四年に発生した本島南西沖地震がマグニチュード八・0、明治八年(一七七一年)、多良間南方沖で発生した地震はマグニチュード七・四を記録している。とくに多良間沖地震の際には地震のあと大津波が襲来し、県下で約一万一千九百人が死亡している。(阪神大震災はマグニチュード七・二の直下型)
  平成八年七月、県が東京の財団法人消防科学総合センターに地盤分析や活断層、建物強度分析を依頼したところ、とくに那覇を中心とした本島中南部の埋立地の地盤に液状化の危険性がきわめて高いと指摘されている。
  県防災会議(会長は県知事、自衛隊、警察等で構成)が阪神大震災ののち、県下で発生した震度と震源地分析をベースにシミュレーションしたところ、マグニチュード七・二から八・0の地震が本島近海で発生したと仮定した場合、死者千人以上、負傷者三千七百人、避難者六万人以上という数字が出た(平成九年九月)。しかも、このシミュレーションには津波による被害は除外されていたのだ。
  沖縄の市街地は都市計画の策定もなく戦後、無造作に建設された所が多い。この結果、火災など二次被害をさらに拡大させることになる。万一、沖縄で大地震が発生したときには、阪神大震災発生直後のように他府県より陸路での応援は不可能であるため、人身の被害はさらに拡大することになるのだ。
  以上のことから、沖縄のポテンシャルを高めるには本当北端から那覇まで約百キロを三十分から四十分で走行する高速電車を運行させて北部全域を那覇の通勤圏に入れることだ。折りしもバブル経済が終焉し、また大型店舗の郊外進出で既存の市街地は閉店店舗が相次いでいる。このため駅建設と同時にこれらを再開発し、また市町村の統廃合を併せて実施すれば沖縄の近代化は一挙に促進することになる。
  普天間基地の北部移設で世論を二分しているが、このような発想のほうが問題解決は容易ではないだろうか。

 もし米軍基地が大幅削減されたら
 
  以上、沖縄問題について早急に改善すべき点を列挙したが、県民は歴史を冷厳に分析すべきだ。沖縄戦によって戦前の史料の多くを焼失しているため無理もない話であるが、県民が近代史を知っていれば失敗を犯さずに済んだ事例は枚挙にいとまがない。
  とくに大正十三年、沖縄経済の破綻の主因となった大正バブルと、平成三年をピークとしたバブルは、前者が本土資本による沖縄産砂糖への投機であり、後者がリゾート・不動産であった。いずれも根底には第一次世界大戦、冷戦終結という世界経済のサイクルがあったのだ。もしこの歴史の教訓を分析した職者が県内に一人でもいたならば、平成バブル崩壊による県経済のダメージは限定できたであろう。
  また、ミクロ的視点で見ても、平成十五年開業予定の沖縄都市モノレール事業(総事業費千八十億円、県・那覇市共同出資による事業)など、大正三年五月に那覇市内に開業した路面電車(沖縄電気軌道株式会社、昭和八年廃業)の失敗を学んでいれば、より慎重なプランニングができたはずである。
  ところで、沖縄社会は世界がグローバル化するなかで、独り逆方向に進行してきた。
  戦前、県内には百四十七銀行(現在の鹿児島銀行)や勧業銀行が進出しており、広島、山口、鹿児島出身者の経営する企業が沖縄に展開していた。彼らの資本とベンチャー精神こそが尖閣諸島などの開拓や産業を創設していったのである。
  戦後、琉球政府は沖縄域内人口増加率一四・三%、人口も戦前県内人口のピークを約三六%上回る八十万千六十五人(昭和三十年当時)を記録していながら、過小資本の地元企業を民族資本と称し、県外企業の沖縄進出を抑制した。そこで米国は沖縄をドル経済圏に入れ、外銀二行の沖縄支店開設を強行するなど外資による沖縄経済の活性化を図ったのだ。このとき地元ゼネコンも厳正な米軍の入札制度と工程管理に対応し、本土や外国のゼネコンと互角に競って大型工事を受注していたのである。
  ところが、復帰後の政治主導型の経済体制は社会の進歩すら阻害している。現在、県内総生産のうち、製造業によるものは七%(全国平均二五%)にまで漸減しており、雇用者三名以下の小売り赤字企業が県内企業総数の過半を占めている。また県内建設工事コストも政治誘導型の公共工事が主流となったため、労務単価など九州平均より二二%高くなっているのだ(とび工等)。
  シンガポールはかつて英国の統治下にありながら、独立後も英語を公用語にするなど、その利点をいち早く応用し、アングロサクソン流のマネジメントを定着させた。そして最近、近隣諸国の経済危機で自国のコストが相対的に上昇したため、競争力検討委員会の提言に基づき国内の労働者平均賃金を一律一五%引き下げ、また電話料金を含む公共料金、地方税等を引き下げるなど競争力の維持に努めている。そればかりか理工系の人材育成にも成功し、労働集約型から技術集約型の産業構造に転換しつつあるのだ。
  いま沖縄には二十三項目にわたって税制の優遇措置がある。さらに今度は県外企業を誘致するためとして、法人税の軽減を含む特別貿易地域の建設が進められているが、特別措置がかえって高コストを生み、アジア諸国ととうてい競争できる状況にない。しかも平成十四年三月末、その基本法である沖縄振興開発法の期限も到来する。ここで県民は四回目の延長を懇請する以前に、従来の発想を根本的に転換する必要がある。
  このままでは将来、米軍基地が大幅削減されたとき、沖縄はまた戦前と同様の歴史を繰り返すことになるであろう。
  スペインの哲学者オルテガは、政治家に最も必要な資質は「歴史的直感だ」と発言したが、民主政治においては何よりも大衆がその直感をもつことである。

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