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バラまき振興策は沖縄をダメにする 改革者 1997(平成9年)5月号

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政府の沖縄県庁懐柔策は反基地運動に勢いをつけただけで、真の経済活性化には有害だ。これ以上つかみ金をバラまいてはならない。

恵 隆之介
銀行員・沖縄在住


「沖縄」が問うていること

  二月二十一日、駐留軍用地特別措置法に基づく裁決申請に関する第一回公開審理が沖縄県宜野湾市で行われた。この審理の中で反戦地主会会長の照屋秀伝氏が 「自分たちの土地を、アジアの仲間を殺戮し、人権をふみつけにするために使うのではなく・・・」と発言した。一方、この一年前千葉教育会館で開かれた 「チュチェ思想と日朝友好に関する全国セミナー」 で沖縄大学の佐久川政一教授 (一坪反戦地主)が類似する発言をしている。
  「在日米軍をはじめアジア太平洋地域に駐留している米軍の銃口は朝鮮に向けられています。朝鮮に矛先が向けられた日米安保体制の最前線に位置しているのが沖縄です」(「チュチェ思想」 一九九六年三月号)  そればかりか、先述の公開審理のとき会場には韓国民主主義民族統一全国連合米軍基地対策委員長など韓国で反米軍・反基地運動を推進する活動家四十三人が傍聴していた。また最近の北朝鮮中央放送は 「沖縄住民が反対する特措法改正は、橋本首相の対米屈従の体質を示している」 と批判している。
  これらの事象を照合しているうちにさらに次の二点も気になってきた。

一、 一坪反戦地主二千八百八十五人の中に十三人の外国人と二人の所在不明者がいる。

二、 沖縄県の推進する国際都市構想の推進委員会委員を務めた星野進保氏 (総合研究開発機構理事長)が北朝鮮を礼讃する言動を行いチュチェ思想国際セミナー日本実行委員会委員の一人でもある(委員、総数二十九名)。

  わが国が米軍に守られて太平の眠りについている最中に、沖縄問題をとりまく情勢は放任できなくなってきている。わが国政府はこの重大な事象を深知しているのであろうか。

  政府の沖縄対策は甘すぎた。特に官邸は反基地運動を押さえようとしてここ半年間沖縄県庁に直接交渉を繰り返し、振興策を話題にして沖縄県庁の譲歩を期待した。とくに昨年八月には、にわかに設置された官房長官の私的諮問機関 「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」 (座長島田晴雄慶大教授) などは僅か三ヶ月で答申を出し、「沖縄基地所在市町村が基地のため閉塞感を来たしている」 として 「今後数百億から一千億円前後の事業を実施する」 と発表した。まさにつかみ金のばらまき的施策である。
  さらに昨年十一月に総理補佐官となった岡本行夫氏は沖縄県に阿る発言を繰り返し県庁への浸透を計ったが、その言質は県庁側にたくみに利用され、結果的に政府のとった一連の沖縄県庁懐柔策はかえって反基地運動に勢いをつけてしまった(詳細後述)。
  国家が人口比で約一パーセント、しかもその中の一握りの集団に振りまわされる実態に沖縄で事業を営む外国人さえもあきれている。これは政府が沖縄の県民性を分析していないのが主因である。しかも今なお沖縄にある各省庁の出先に赴任する役人が同様に安易なリップサービスをしている。また、この言葉が地元のマスコミを躍らせ、国際都市構想のように沖縄県民が実力以上に自己の座標軸を高く設定してしまうのである。

地元紙の情報操作

  政府のこのような及び腰に比べ北朝鮮の沖縄への努力は見事である。昭和四十七年の沖縄復帰と同時に関連の事務所を設置しスタッフも殆ど転出することなく約二十五年にわったて県民との交流、分析に努力してきた。筆者も一度スタッフに会ったことがあるが、その誠実な人柄を見てこの人々の延長線上に北朝鮮があるとは思いたくなかった。大田沖縄県知事が「『北朝鮮の脅威があるから海兵隊が沖縄にいる』というが、その脅威というのが解らん」 と発言するのも無理からぬ話だ。
  ところで県内新聞購読シェアーの九十七・九パーセントを占める地元二紙の情報操作もしたたかだ。絶えず紙面のどこかに基地被害、沖縄戦の惨状、琉球文化の優位性を載せながら、北朝鮮や中国に対するイメージダウンになる記事は殆ど載せない。最近も二十年前新潟で北朝鮮に拉致された横田めぐみさんに関し、一回だけ紙面で小さく取り扱った後は関連記事を一切載せていない。
  平成二年、こうした地元紙の偏向を批判する投書を、新垣保光氏 (当時沖縄市在住) が地元T紙に送ったところ、差出人が架空名義の葉書が送られてきた。「貴方に危害を加える人がいるかも知れませんので私達新垣さんを守る会が貴方を守ってあげます」 と、ワープロで打たれていた。まさに脅迫状である。その他県民の間からは地元紙に投稿したら勝手にタイトルが変えられたとか、文言が書き換えられたなどという話が絶えない。
  これに加え沖縄県庁もくだんの反基地運動に異論を言う県民にはあからさまに圧力をかけてくる。まさに今沖縄県は反基地運動勢力によって占領されているといっても過言ではない。

  沖縄県庁は昨年十二月より「平和、共生、自立」 を沖縄県のキーワードとして発表し、今年を「新生沖縄元年」 と位置づけている。これがかつて「自主、自立、自衛」 をチュチェ思想に影響されていることは疑いのない事実である。昨年一月大田知事は沖縄県のCI宣言と称して 「真の民主主義は『自主、自立、自力』によって成り立つことをしっかり把握しております」 と発言している。そして大田知事のプレーンとされ、最近種々の反基地運動の先頭に立っている佐久川政一沖縄大学教授はチュチェ思想研究会全国連絡会会長の肩書きを持つわが国の北朝鮮礼讃派の主要メンバー一人でもある。

  最近の知事の発言にはこの思想影響を受けた内容が目立つ。「(前略) 本土の人々は排外的な集団主義から抜け出し、異なった人々や文化との共生を目指すべきだ。そうでなければ沖縄と本土との共生も難しいでしょう」 (「琉球新報」 二月二十七日付夕刊)。
  国が言うことをきかないと独立してみせるといわんばかりである。これに関し沖縄社民党選出の上原康助衆議院議員が二月十三日、予算委員会で「沖縄独立の際の法的処置について」と発言し、その中で 「私は本当に琉球王国を作ろうと思っている (中略)、大田知事を親琉球王国にして私が何になるかわかりませんが、本当に夢じゃないのですよ、こういう状況にあるということ、余り沖縄をいじめたらいけません(後略)と明言している。
  従来上原氏と知事とは決して良好な間柄ではなかった。ところがこの発言内容を分析すると上原氏がかなり知事の言動に傾倒し知事の発言を代弁しているかのような印象を受ける。このように今沖縄では「独立」という文言が県下を風靡している。これこそチュチェ思想の最も大きな影響であろう。
  さらに従来沖縄の基地問題には発言しなかった県内識者さえ基地縮小、とくに海兵隊撤退論を主張するようになっている。水面下では既にシャドー・キャビネットぐらいでき上がっているかもしれない。
  国民は 「まさか!!」 と思うかもしれないが、沖縄県民にはこういった思想にかぶれ易い二つの要因がある。一つは特異な県民性であり、二つ目は戦後沖縄戦で歴史資料を焼失した後の空白時代に作られた本土への抵抗史観的な沖縄近代史である。
  それを詳説する。
  戦前沖縄文学界の重鎮と言われた伊波普猷氏はその著「古琉球」(昭和十七年刊)において沖縄人の最大欠点として 「恩を忘れ易い」 と明言し、事大主義的な県民性を痛烈に批判している。

苦難の琉球王朝時代

  現代沖縄でも県知事や東門美津子副知事がそれぞれ米軍政府の費用で米国の大学へ留学し、卒業後は米軍がそれぞれ創設した琉球大学や地元のアメリカンスクールで停年近くまで勤務しておきながら左翼団体に担がれるや「基地の重圧」と発言し、基地撤去を公言している。まさに伊波氏の指摘通りである。
  一方戦後の沖縄近代史においては極端な琉球王朝神話が作られ、これに被害者的歴史観をもって本土への恨み、対立という構図がいたずらに作り上げられている。その史観の一端を前出の上原氏の国会発言を引用して紹介する。
  「(前略)琉球という国があったのはご承知のとおりです。小国ではありましたが長い間君臨する国王をいただく王国(中略)、明治十二年の琉球処分、廃藩置県、こういう過去を経て琉球は日本人に併合されてきた」
  「(前略)事実自分たちの戦前、戦中、戦後虐げられたこの苦難の歴史の上に立って物を言っていること、社会を見ていること、政治を考えること、このことは是非御理解いただきたい」
  国会議員たる者がこれほどまでに歴史を学んでいないのには閉口させられたが、戦後世代の多くはこの様なコンセプトで教育を受けてきたのが実態である。

  ところが史実はまったく異なる。近代において沖縄はわが国に帰属しなければ想像を絶する苦難の歴史を歩んでいたであろう。
  琉球王朝は中国皇帝への朝貢をもって国王としての王位を授かり、十倍近い返礼をもって王国の財源にしていた。とはいえ琉球の政治の実権は現在の那覇市久米にあった朱明府という華僑集団に牛耳られていた。沖縄の朝貢貿易は明の時代に始まるが、当時明は海禁政策をとっており、また明が滅亡する五年前(一六三九年)にはわが国は鎖国をする。この点華僑にとって沖縄の地勢と日中両属に近い政治体制には魅力があったのだ。

  琉球王朝最後の王子尚順氏(昭和二十年没)の回顧によると「旧正月に琉球王は主府首里城で唐栄(政治顧問、中国からの帰化人)の号令に従って北京の紫禁城の方向に向いて三跪九叩の礼を行っていた」と記されている(「松川王子尚順遺稿集」参照)。この礼式は最も屈辱的なものとされ、アヘン戦争(一八四〇年)以降、欧米人は決してやらなかった。
  慶長の役(一六〇九年)で琉球に進出した薩摩軍に最後まで抵抗し鹿児島で刑死したとされる王朝最高位の官僚謝名親方は朱明符の出身であるとする説が強い。
  ところで沖縄県民がこのような琉球王朝をユートピアとしながらもその最期の王朝であった尚家について決して語ろうとしないことにも注目すべきだ。
  琉球王の住民統治は人民への徹底した搾取であった。「地割制」という制度で農民の土地私有を一切認めず、課税単位を村落ごととし、二から三年の年限をもってその耕作地を集落ごとに替えさせたのである。自然条件が農業に適さない沖縄では食料問題に起因して反乱が起こり王朝は短命に交代していた。このため琉球王は住民の生産性を平準化することによって新興勢力の台頭を抑えたのである。
  この、収奪され、疲弊の極度にいた琉球農民の惨状は明治十四年沖縄に赴任した上杉県令(今の県知事)の日誌に詳細に記されている。胸をうたれた上杉は政府に沖縄救済策を建議するとともに私財三千円(当時)を県に奨学資金として寄贈した。ちなみに当時県令の月給は二百円であった。
アヘン戦争以降植民地と化していく中国ではあったが、列強は沖縄にわが国の統治権が及ぶのを認め県民には中国で彼らが行ったような手荒なことはしていない。
  明治三十六年(一九〇三年)明治政府は県下を測量し、県民に土地私有地を認めた。その結果沖縄農民の生産欲は著しく向上し、二十年後の大正十二年(一九二三年)には、耕作面積は明治三十六年当時の2.4倍、3万2千ヘクタールを記録している。

「植民地の如く・・・」

  ところが順調に伸びつつあった沖縄経済も第一次世界大戦バブルの崩壊で砂糖の国際価格が暴落し、大正十二年(1923)沖縄県の財政は破綻する。地元にあった三銀行も倒産し、飢えに苦しむ農民の一部はソテツの実を食べて中毒死するという事件さえ発生していた。

  この時政府は大正十二年に発生した関東大震災の復興という大問題を抱えていたにもかかわらず、直ちに沖縄救済に乗り出し、大正十四年には銀行一行を設立して信用秩序を回復させている。
  ここに県民が忘れてはならない史実がある。大正十五年、県選出の代議士四人が帝国議会へ「沖縄経済救済に関する建議会」を提出している。その中に「或いは植民地の如く(沖縄経済を)特別会計に改めて貰いたい」と明記しているのだ。

  沖縄県民の優柔な性格はとにかく競争に弱い。仮に沖縄県民が琉球王朝神話に謳われているような進取の気性を有していたのであれば明治という新たな時代に本土財界へ進出していったはずである。ところが大正三年(1914年)には県都那覇市のメインストリートにさえ沖縄県人の経営する店は一件もなかった。全部他府県人のものであった。
  ところで廃藩置県後も中国礼賛派は沖縄県内に多数跋扈し、政府の近代化策をことごとく妨害していた。その結果義務教育の施行が遅れ沖縄は本土中央へなかなか人材を送り出せなかった。そしてこの他律的な意識が、沖縄青年の心理を屈曲せしめ、反国家運動へ走らせることになっていった。ゾルゲ事件で刑死した宮城与徳氏や戦後共産党書記長となり中国で客死する徳田球一氏などがその好例だ。
  近代史を分析すると、どうも歴史の教訓を生かしきれない沖縄が見えてくる。再び同じ運命を巡るのではないだろうか。

中台の貸座敷と化す

  チュチェ思想に侵食された沖縄県庁にはもはや日本国民としてのアイデンティを期待するのは無理であろう。
  昨年十一月中国福建省関係者を招いて那覇市で「沖縄福建省サミット」が開催された。席上挨拶に立った吉元副知事はこう発信している。
  「昨年(平成七年九月二十八日)太田知事が(米軍用地強制使用のための)代理署名を拒否したのは、同月発生した米海兵隊員による少女暴行事件(九月四日発生)が主因ではなく、(平成七年)二月に発表されたナイ・レポートの米軍アジア兵力十万人体制ということに対する反発であった」
  また大田知事は日米首脳会談(四月二十四日開催予定)に先立って十一日にワシントンへ行き「ヤンキーゴーホーム! 沖縄米軍基地の将来」と題して講演を行なう予定である。この大田知事が在沖米軍高官に「沖縄県知事を退任したら長男の住むハワイへ永住するつもりだ」と発言し失笑を買っている。

  防衛面で世界最強の米軍に守られ、経済面でわが国の高率補助の下におかれた甘えにチュチェ思想が加わると、こういった思考に帰結するのだ。
  ところで、沖縄県庁は基地撤去と国際都市構想を打ち出し、ノービザ制度や独自の関税制度の導入を主張している。とりわけ最近は中国福建省と台湾、沖縄を結ぶ「蓬莱経済圏構想」が話題に上がってきた。
  蓬莱とは琉球王朝全盛時代(?)を謳った鐘の銘文の一節を引用したものである。こともあろうに梶山官房長官が最近「この実現に最大限努力する」と発言している。梶山官房長官はこれほどまでに沖縄県庁に振り回せれていながら、なお沖縄の県民性に気付いていないのだろうか。長官は帝国陸軍士官学校で何を学ばれたのか。

  中国紙青年報は四月三日、早速蓬莱経済圏構想を「政治的画策」として論評し、さらに台湾が提唱している台湾と沖縄を結ぶ「中琉経済圏構想」には台湾を日米安保体制に入れるものとして批判している。

  万一政府が沖縄の要求に阿って蓬莱経済圏構想などを実現すれば、再び沖縄は琉球王朝時代のように中国あるいは台湾の貸座敷と化するであろう。そればかりか東アジアに新たな紛争の火種をまくことになる。
  ところで最近、政府の高率補助に甘えた沖縄県民の生産意欲は低下している。農業や漁業を始めあらゆる分野の生産値が右肩下がりに推移しているのだ。加えて人口増加率は本土の2.5倍の4.1パーセント、失業率は昨年ピークで7.2パーセント(平成八年九月)。これも本土平均の二倍を超えている。
  基地問題の条件闘争にいくつかの政党が「さらなる振興策を」と発言しているが、これ以上沖縄につかみ金をバラまいてはならない。

放蕩息子に小遣銭

  一方沖縄反基地運動の足軽部隊は教職員や県市町村の労組であるが、その実態について述べたい。
  沖縄県は十市四十三町村からなるが、その特徴は行政面積が狭小で基地面積を減じなくても市部面積で四十七都道府県で四十五位(72.76平方キロ)、町村部で四十六位(35.76平方キロ)である。その殆どの市町村が他府県の類似市町村に比べて多い職員数を擁している(人口千人あたりの職員数)。しかもラスパイレス指数が百を超える市町村が県下に八つもあるのだ。

  従来彼らの多くが「反基地」という政治闘争に明け暮れているうちに財政が人件費等の固定費で圧迫されるようになり、行政本来の業務遂行が困難になってきた。そしてようやく住民がこれに気付き始めリストラや市町村の合併などを提案し労組も従来の方針を再検討し始めていた矢先、政府は今年度予算に地方交付金に基地関連経費を新設するなど沖縄県連予算の大幅増額を行なった。この傾向はあたかも放蕩息子が金を使い果し「今までの生き方を変えねばならん」とまじめに思い始めている時に親がやってきてまた金をやるようなものだ。
  もう一つ国民の血税が反基地運動に転用されているのがある。政府の高率補助の下で沖縄県が発注する公共工事である。
  沖縄経済の基盤は3Kと言われ、基地、公共工事、観光であるが、観光は収益率が極めて低い。したがって県は公共工事に最大のうまみを感じている。選挙があると県庁幹部は各建設、土建会社へ直接電話をかけ選挙工作をする。そればかりか公共工事を落札した業者からは政治献金を集め、この資金が沖縄反基地運動の資金として活用されるのである。
  「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」が基地所在市町村活性化のためとしていくつかの市町村に箱物作りを答申している。これを聞いた県はすかさずこのプロジェクトに参画を希望しているのだ。
  このような観点から総理補佐官の岡本行夫氏が今年1月基地所在市町村をまわり基地関連交付金等の増額を各市町村に強調して歩く姿を見て、わが国の行く末に不安を覚えた。しかもこの岡本氏の一連の発言にもまた耳を疑いたくなる。
  「東アジアの拠点となるような施設群を沖縄へ持ってくる。それが私の夢だ。沖縄では新しい実験をしてみたらどうか。本土は沖縄に負のことだけを押し付けてきた。今度はプラスのこと、本土のどこでもやっていないことを沖縄でやっていい」(琉球新報、平成八年十一月十六日付朝刊)
  「在日米軍基地の78パーセントが存在する沖縄はまさに一国二制度みたいなものだから沖縄県の主張する国際都市構想などの一国二制度を受け入れてもいいのではないだろうか」(平成八年十二月、県庁での発言より)
しかも岡本氏はこともあろうに今年三月、「海兵隊の削減を直接米国へ交渉に行く」と言い出し、梶山官房長官官房に叱責されている。
  岡本氏には申し訳ないが、総理が外交官としてのキャリアのある同氏を補佐官に選らんだのが、そもそも混乱の一因になったのではないか。その点明治政府の沖縄施策は現代とはまったく対称的である。

沖縄行財政は破綻寸前

  廃藩置県後(明治十二年三月以降)、琉球王府内には未だ強力な中国支持勢力がおり清国もわが国政府に沖縄問題について発言し、沖縄列島の分割支配さえ提案していた。沖縄問題に手を焼いた政府は明治二十五年第八代県知事として奈良原繁氏を起用した。
  奈良原氏は幕末の頃、生麦村で薩摩藩の行列を横切った英国人を斬殺したこともある強烈な個性をもっていた。しかし行政官としての手腕は群を抜いており、宮中顧問官にまで抜擢されていたのである。その後、奈良原氏は沖縄県知事を十六年の長きにわたって務め、沖縄の教育の振興、沖縄農民への土地私有制の導入(明治三十六年)、県内インフラの整備等近代化へ多大な功績を残している。
  当初県民は、その個性と謹厳実直な性格に魅了されることになり奈良原氏が知事退任後明治四十一年七月沖縄県民は那覇市奥武山に氏の銅像を建立し、感謝の意を表している。
  一方明治八年三月、内務卿大久保利通氏の発案により守旧頑固な沖縄県民を啓蒙するためには正しい情報を伝えるのが重要として国費で東京の新聞、雑誌を買い上げ県民に無料配布している。現在の県民が県外紙を読む機会が少なく、また県政に不利な記事の載った雑誌は県関係者によって買い占められる状況を見るにつけ明治政府の施策がいかに要領を得ていたかが解る。

  余談になるが沖縄復帰前の昭和三十五年、これまでの米国政府援助にわが国政府援助が大幅に加わり、また翌年四月池田・ケネディ会談で琉球政府の自治権拡大が容認されたことから県内で権利意識がにわかに強まった。
  ところが金余りの現象の中で県内金融機関が最近の住専のような不正を犯すようになっていた。このため米国民政府はこの取り締まりについて度々勧告を出したが琉球政府(今の沖縄県庁)や琉球司法機関に無視された。そこで業を煮やした高等弁務官キャラウェイ陸軍中将(当時の沖縄統治権者)は布令を発動し、銀行保険会社などの金融機関幹部を一斉に検挙した。その時キャラウェイ中将は「『自治』を要求する声よりもむしろその『責任』と『能力』の度合を考慮せざるを得ない」という名言を発している。
  お陰で沖縄の金融秩序は回復し昭和四十七年の本土復帰の際県内金融機関は大した混乱もなく大蔵省の隷下に入ることができた。要するに沖縄県の行政能力と傾向はこういった前科があるのである。
  話を元へ戻そう。
  今沖縄県は重大な危機を迎えつつある。経済的にも地価がバブル期の十分の一以下に下落し本土の投資家も沖縄のイデオロギー闘争に眉をひそめ、沖縄への投資を手控えるようになった。さらに高率補助に甘えた県や市町村の財政は破綻の方向へ確実に進行している。今後いくつかの経済的行き詰まりが相乗し、沖縄の行財政全体が崩壊する危険性が高まっている。
  ところで筆者は昨年九月頃より「沖縄甘やかし策は重大な結果を招く」と小論を作成し多くのメディアへ掲載を依頼したがまったく相手にされなかった。今般の沖縄反基地運動家とチュチェ思想の繋がりも露呈したが、これも氷山の一角かもしれない。こういった中で沖縄県庁の筆者に対する締め付けも確実に強くなってきた。しかしこれに屈することなく沖縄の未来のために正論を吐き続けていきたい。
  本土同胞の支持切に願う次第である。

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