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基地沖縄に圧殺される事実 「サンサーラ」(1996・平成8年5月号)

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恵 隆之介

基地問題と日米安保で揺れる沖縄。那覇在住の論客が敢えて県民に問う。「これでも基地の全面撤去を欲するのか」と。

  沖縄県は今重大な局面を迎えている。感情と理想論が島を覆い、県民は正しい情報を得ていない。このままいけば大正13年のあの屈辱的な経済破綻の轍をまた踏むのではないだろうか、沖縄県民は今歴史を振り返る時期にきている。


1 恐るべき財政の硬直化

  冷戦が終了しアジアには永遠の平和が訪れるかと期待したのも束の間、我が国周辺はまた軍事的緊張が高まってきた。 このため日米安保の重要性が再び高まり、1年前からこの再定義をめぐって日米両政府による交渉が再開されていた。

   一方、沖縄県知事は昨年8月頃より反基地の立場から、「日米安保が重要であるなら全国が公平に米軍基地を分担すべきだ」と主張し、平成8年3月に期限の到来する在沖米軍用地の強制使用手続きの代理署名拒否というカードをかざしながら、日本政府に基地の一部県外移転を迫っていた。

  そこへ、昨年9月4日に発生した米海兵隊員による少女暴行事件はこのような反基地勢力の恰好の攻撃材料となった。

  当初、県はこの事件を糾弾すべく、10月21日、県民総決起大会を開催した。このときは基地縮小というスローガンをもって超党派で多数の県民を集め全国へ基地被害をアピールしておきながら、12月になると突然、20年後の2015年までに基地全面撤去をめざすと主張し始めたのである。

  これと機を同じくして県内マスコミは「基地撤去は県民の総意である」かのような文言を連日県内外に流布すると共に、県民から寄せられる慎重論はことごとく報道しなかった。さらに、これらの反基地勢力は暴行事件という倫理問題と安全保障問題をからめて基地撤去の世論形成を計ったものだから、在沖米軍基地の重要性を主張すること自体社会正義に反するかのような批判を受けることもあった。

  ところで2015年までに基地を全面撤去して本当に沖縄県は生存できるのか、基地なき後の経済展望はあるのかと問われれば実態は誠に悲観的である。

  沖縄県の財政は自主財源22%、残りはすべて国庫補助である。また県と沖縄の主要都市である那覇市、沖縄市の経常収支比率は90%を越えている(主な要因は人件費)。これがもし企業であれば破産寸前である。とくに県の財政は県税収入が3年連続で落ち込み、県債は大幅に増加しつつある。さらに基金の運営もままならずこれを取り崩して急場を凌いでいるのが現状である。

  ところが県内人口は増加の一途を辿っている。平成7年現在127万3508人となり、過去5年間で4.1%の増加率を記録している(全国平均増加率は1.6%)。さらに県内失業者は全国平均の2倍、7.1%に達し(平成7年12月末資料)、産業構造も3次産業に偏重している。

  ちなみに戦前の沖縄の人口はピークで59万7902人(昭和12年)で人口増加率も5年平均で0.5%であった。これは当時の産業構造が砂糖きびを主体とする農業が主であったため、耕地の不足から若者は本土への出稼ぎか、海外移民へ出ていかざるを得なかったからである。

  今、沖縄の失業者のほとんどは若者である。なかなか県外へ出て行こうともせず、たとえ出て行っても仕事が長続きせずUターンする者が多い。それだけ沖縄は住みやすくなった。

  さて、ここで沖縄の主要産業、農業、観光、基地について言及したい。

  かつて江戸時代には大阪の砂糖市場を賑やかした沖縄産砂糖は今でも沖縄農業の中核であるが、農業粗生産額1008億円のうち221億円の生産額に過ぎず、国が特別価格を設けて買い上げているのが実態である。もはや国際競争となれば価格面で生き残れない。

  観光産業は売り上げ3500億円であるが、利益率は低く、昨年は「来県した観光客は史上最高になった」と、地元マスコミは報道したが、実態はダンピングして本土から集客してきたため県内ホテルはほとんどが赤字決算となっている。

  ところが基地産業は格段に収益性が高く規模も大きい。

  3万2914名の軍用地主には借料として今年は総額710億円が支払われる(平成7年度比5%アップ)。基地従業員7923名には479億3000万円の給与が支払われる上に、基地から派生する土木建築工事、米軍人の消費を加味すれば2500億円弱の資金が沖縄におちる。そればかりか基地の所在する市町村へは基地周辺対策費等の名目で国から資金が投下され、地公体歳入の平均20%を占めている(金武町にいたっては40%を依存している)。

  ここで注意を要することがある。県内マスコミはこの軍用地借料710億円と観光売り上げ3500億円を単純比較して基地経済無用論を力説しているが、企業会計上は軍用地借料は純利益と解釈しても差し支えない。従って基地は売り上げ6兆円規模の優良企業が沖縄に存在するといっても過言ではないのである。

  ところで県内企業上位50社の売り上げは1兆380億円でしかない。また「基地があるから企業が起こせない」という者もいるが、実は、沖縄復帰の際、県は経済自立のために本土大手の製造業を誘致すべく努力したが、沖縄の労働運動が政治色を帯びていることに気付いた本土企業は一社も進出しなかった。

  沖縄には在日米軍基地面積の75%が展開しており県財政に占める国庫補助率は78%である。大田知事の論法に従って、もし。在沖米軍基地を本土へ移転するなら、この補助率も同様に比例配分して削減されても致しかたないのではないか。今や日本経済が苦境にあるのである。そしてこの時は、現在127万余の沖縄県人口は(戦前の2倍強)、県外流出を余儀無くされることになるだろう。


2 慢性的な人材不足

  かつてとう小平は明治維新を評価し、明治政府の教育投資と科学技術習得への努力を称賛した。また第2次大戦後の我が国の驚異的発展の原因を研究した英国の経済学者コーリン・クラークも、「明治天皇による義務教育の確立にあった」と結論している。

  しかし沖縄の文化人はこれを「皇民化教育」だったとして揶揄している。実態はどうだったのだろうか。現在と類似する部分があるので評述する。

  本土では義務教育令は明治5年に施行された。そして学問は立身出世の手段とされ、当時の青少年たちは先を争って勉強した。ところが沖縄は廃藩置県を拒み続けたため明治19年になってようやく施行されたのである。しかも、学問は士族のたしなみとされ、農家は子弟を早く出稼ぎに出して、その送金をあてにするようになった。このため沖縄では就学率がなかなか伸びず、しかもあまり教育されていない沖縄出身者は行く先々で批判されがちであった。

『沖縄県史』新聞編、明治34年9月の項には「本県人の不信用」として次の記述が残されている。

  「大阪において本県出身の青年労働者が酒に溺れ、欠勤が多く、月給よりも日給を求め、沖縄県民への信用を傷つける」
  また『北米県人史』には移民一世の回顧として「移民の教養が低ければ、海外で差別排斥そされがちであるので、其の教育は甚だ重要なことであった」という記述がある。

  昭和10年代になって初めて沖縄はこの教育の重要性に気付き、「沖縄を他府県並の教育水準に引き上げるには、秀才教育をもって当たるしかなく...」(沖縄県立第二中学校長志喜屋孝信)とようやく教育振興策をうちだしたのである。

  しかし不運にもこの時、芽生えつつあった県の人材は過ぎし沖縄戦で郷土防衛隊、特使看護婦として従軍し、ほとんどが散華された。

  戦後振り出しに戻った沖縄教育界に対し、政府は28年より国費留学制度を制定し、県内中学、高校を出た県出身者に限り特例で東大、京大などの国立大学へ進学させた。また在沖米軍はこれよりも早く昭和23年に米軍の費用で沖縄の若人を米国の大学へ留学させると共に、昭和26年県内に沖縄史上初の大学を設置して人材の育成に努めた(琉球大学、現在は国立)。

  ちなみに米軍の費用で米国へ留学した者は合計で約1100名余にのぼり、現在はこの人材は沖縄の中核として活躍している(大田知事もそのひとり) しかし昭和47年の本土復帰に伴い、これらの特例は廃止された上に、沖縄教育界に復帰の5年前よりにわかに反国家的なテーゼを主張する政治集団がばっこするようになった。

  それまで米軍政下で「国旗掲揚は県民の悲願」と復帰運動をの先頭に立ち良識の府として存在した沖縄教育界は、「国旗掲揚、国家斉唱反対」を唱える前衛集団と化したのである。

  これに危機感をいだいた父兄は子弟を中学の頃から借財までして本土の学校へ遊学されるようになった。

「有名大学進学の沖縄特例が廃止された上、政治運動で荒れた県内公立校に子供を預けたのではとりかえしのつかないことになる」というのが昭和40年代―昭和50年代における父兄の深刻な話題であった。

  この沖縄教育界の混乱の結果、今沖縄の青少年の実態はどうなっているのか。

  1. 琉球大学は日本復帰に伴い国立となったため、本土からの入学者が増え  るとともに地元出身者の合格率は激減している。

  2. 高校中退率全国上位より1―2位
  3. 離婚率全国上位より1―2位
  沖縄県警の平成6年度犯罪統計によれば、「刑法犯のうち窃盗犯の中の侵入盗は人口1万人当たりの犯罪率でみると全国ワースト1。刑法犯で検挙された者のうち半数は少年である」とのことだ。

  青少年の深夜徘徊は依然多く、沖縄社会の頭痛の種である。

  明治14年頃の世相を憂えた文がある。歴史はくりかえらされるのであろうか(東恩納寛惇著『尚奏候実論』より引用、原文のまま)
「人心の頽廃其極に達し、年少子弟、智徳の検束を脱して街路に放牧せらる。習終に性となるに至って、其害毒豈啻に刀筆の使役事を案上に見ざる如き比ならんや、県令(著者注、現在の知事)汎く訓令を発して鞭撻せしも(著者注、教育に関する訓令)俄に功なかりき」

3 封印された沖縄史1
   殖民地的特恵処置を乞う


  明治4年、廃藩置県の政令が沖縄にも届けられた。ところが琉球王府はこれを拒絶した。そこで政府がこれを平和裡に解決しようとして内務官を明治8年と明治12年(1月)に二度にわたって沖縄に派遣したがいずれも王府は受理しなかった。このため政府は、明治12年3月に陸軍歩兵400名、警官160名という実力部隊を内務官に伴わせて琉球王府に廃藩置県を申し渡したのである。このとき琉球王府は何の抵抗もせず即座に従った。

  一方、政府は沖縄近代化の一環として医療施設の設立に着手した。沖縄は亜熱帯の地域にあり、種々の風土病に県民は苦しんでいたのである。

  当時沖縄農民の生活を第2代沖縄県令上杉茂憲(山形県出身)はこう記録している(明治14年、「上杉県令沖縄本島巡回日誌」より引用、現代文へ変更)。

「農民の家には大てい2―3間(約4―5メートル)角の小屋で、四方の壁はかやと竹で、軒は地からようやく3―4尺(約90―120センチ)の高さ、ほとんど床というものがない。家族は6―7人が豚や山羊と同居し、蚊や、はえに刺されるまま、芋を食べ、着物は粗末で雨に濡れ、日にさらされ、裸足である。家にひきこもって時たま泡盛を飲むことを至上の喜びとしている」
「農民は字一つ読めず自分の姓名すら書けない。法令や告達がどうなっているかも知らず、ただ村役人の言うがままに銭や米菜を税として納めるだけ...」
  政府は明治9年、陸軍沖縄分遣軍医脇屋瑞元に沖縄住民への最初の西洋医学治療を開始させると共に明治12年には沖縄県医院(後の県立病院)を開設し、大正元年までに172名の医師を養成している。

  ちなみに明治12年には沖縄でコレラが流行し、死者約2400人、明治19年には天然痘及びコレラが流行、死者合計2000人を数えている。

  ところで、廃藩置県後も沖縄には反日親中の気運が残り、政府の近代化政策はことどとくこの琉球の旧支配者層に妨害された。しかし我が国が日清、日露の両戦争に勝利したことを知った県民はようやく国家意識をもち始めるようになった。

  ところが今度は一日も早い本土並みを主張するようになった。

  明治11年、本土では三新法の制定(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)をもって県制が施行されたが、沖縄は明治42年になってようやく、特別県制が施行された。これは県民の教育程度が低いことと、県費(県財政)は毎年20万円(現在の約200億円相当)を国から補助されていたことに起因する(当時沖縄の自主財源比率約70%)。この結果、沖縄県議会議員は県民の直接選挙ではなく町村会議員の選挙による、間接選挙となっていた。

  大正5年頃になると一層、県民世論は一般県制を切望するようになってきた。この運動を先導したのが地元マスコミ、とくに沖縄朝日新聞であった。今の基地撤去運動のように連日、紙面は一般県制を求める論調でうめつくされ、各地区青年団員がこの運動を盛り上げた。

  ところが、当時の沖縄県知事鈴木邦義氏(三重県出身)は県議会に再考を促し、「今すぐ一般県制が施行されたら、20万円の内務省補助金は消え、それだけ県民負担が増加する。現状では沖縄県民はこの負担にたえられない」と力説した。しかし、当時「地方自治」に憧れる県意に抗することができず、ついに県議定員30人の内、17人の賛成をもって、一般県制施行を要望する意見書案が可決されたのである。

  大正11年、こうして沖縄県は一般県制に移行したが、結果は知事が警告したとおり惨たんたる結果となる。

  一方、大正3年に勃発した第一次世界大戦は国内に大戦景気を起こし、沖縄の糖業にも空前の好況をもたらした。そこで当時沖縄にあった三銀行は農家に積極的に融資を行い増産にあたらせていた。

  ところが大正9年、戦後恐慌が発生、東京株式市場は暴落、11年には砂糖の国際価格も下落した。この結果糖業に依存していた沖縄の#弱な経済構造はひとたまりもなかった。大正13年沖縄のこの三銀行は倒産し、金融秩序は崩壊した。

  当時沖縄は、都市部を除く90%が砂糖きびを主体とする零細農家であった。そして、大正11年の一般県制施行に伴う国庫補助の廃止は沖縄県民を腹背から殴打する結果となったのである。

  この場面を大正14年に沖縄の経済窮状調査に来県した大阪朝日新聞経済部長松岡正男は、その著書『赤裸々に見た沖縄の現状』でこう述べている。

  1食料自給不能
  2貿易入超
  3通貨流出
  4金利最高
  5山林荒廃(7、80年後には木炭さえ自給不能になる恐れがあった)
  6財政膨張
  7国、県税未納者全国最高
  8農家の負担額全国最高
  9労働賃金、全国平均の3分の1
  10農家の生活水準、全国平均の3分の1(特に負債をかかえた農家は蘇鉄を食べて飢えをしのいでいたため、農民の中毒死も頻発した)
  大正15年、沖縄県は財政救済に関する建議案を帝国議会へ提出した。この説明文が哀れである。

「財政経済の点については、多少殖民地行政の長所を加味し、この際、特に相当の財源を沖縄県に委譲せられ積極的にその救済ならびに助長開発を計るのが最も策の得たるものと信じ...」。さらに県内世論の一つとして「『或人は殖民地の如く特別会計に改めて貰いたい』と論じている」とさえつけ加えたのである(前出『赤裸々に視た琉球の現状』より引用)
  国民は沖縄の三銀行の倒産をもって初めて沖縄の実態を知ったのである。政府は大正13年に発生した関東大震災の復旧に躍起になっていたにもかかわらず沖縄救済へ全力を投入した。

  大正14年、沖縄興業銀行を設立して金融秩序を回復させると共に沖縄産業助成金を帝国議会で緊急動議で可決した。

  この頃より沖縄からの出稼ぎが激増した。昭和元年頃には京阪神地区で約8万人を数えるにいたったのである。

4 封印された沖縄史2
米軍政下で覚えたぜいたく


  沖縄のマスコミは、27年間の米軍統治の時代を暗黒の時代であったかのように表現しているが実態はどうだっただろうか。

  昭和31年6月28日付け東京新聞紙面に、元総理の芦田均が「米軍統治のお陰で(沖縄)現住民の生活は向上した。日本の統治ではこうはいかなかっただろう」と発言したことと、これに対する野村吉三郎自民党沖縄問題対策特別委員長の談話が掲載されている。

  筆者も昭和44年、本土中学へ遊学のため熊本へ出発したが、初めて見た九州の風情は消費性向において沖縄のほうが派手だという印象を受けた。

  ところで米軍は沖縄戦直後、日本本土侵攻のために沖縄に多量の物資を集積していた。当初彼らは沖縄統治政策が定まっていなかったにもかかわらず、民主国家の大義において沖縄県民を飢えと病気から救うためにこの物資の放出を開始した。

  ところが終戦直後約33万人であった沖縄の人口は翌昭和21年から開始された本土や台湾からの引き揚げ者の流入の結果、昭和23年には56万人に膨れ上がり、彼らの持ち込む通貨によってインフレが起こった。

  加えて、米軍が沖縄で放出する物資は、本土から見れば垂涎のまとであったため沖縄近海では密輸まで発生し、米軍のインフレ懸念をより深刻なものとされた。

  そこで昭和22年より東西冷戦が顕在化したこともあって、米軍は沖縄の本格統治にのりだすと共に、沖縄県内通貨を軍円(B円)に統一した。また昭和21年より開始されていたガリオア援助を24年よりは大幅に増加させると共に、エロア援助を追加した。

  昭和25年になると本格的な基地建設が開始された。2億7000万ドル以上の資金が沖縄に投下され、本土大手建設会社21社もこの特需を受注するために来県した。さらに朝鮮戦争へ出動する連合軍部隊が沖縄を経由したため彼らの消費需要は経済を相乗的に刺激し、沖縄経済は昭和31年にすでに戦前水準を凌駕したのである。

  一方、米軍は沖縄に基地を建設するため土地の接収を急いだこともあって、昭和29年頃よりこの支払方法と価格をめぐって県民の強い抵抗にあっていた。そして約5年にわたる交渉の末に合意に達し、昭和35年から36年までに大量の土地代が沖縄に投下された(総額2416万ドル)。巷では、「ドルの雨が降る」と騒がれ、県内の金融機関には史上空前の資金がだぶついた。

  一方、昭和32年、在沖米軍司令部はワシントンから派遣された金融通貨調査団に指摘され、沖縄のB円通貨をドル通貨に転換していた。この結果、沖縄経済は当時世界で最も裕福であった米ドル経済圏の中で活動していくことになる。

  市中には米国製の嗜好品や食物が出まわり戦前では想像もつかない消費文化が開花していたのである。

  一方、講和条約に調印し、昭和27年に独立した我が国は、当初、沖縄への潜在主権を表明しながら国力の回復とともに施政権返還を主張するようになった。

  かくして、昭和36年4月に行われたケネディ・池田会談こそは、エポックを画した。翌年、ケネディは大統領声明で初めて沖縄の本土復帰について言及し、琉球政府の自治権拡大をも容認した。

  ちなみに米軍は昭和23年に琉球政府(今の県庁)を設立し、その行政の長を主席と呼称した(今の県知事)。また、米軍は沖縄統治のため米国民政府をおき、その長を高等弁務官(軍人)とした。もちろん、当時は高等弁務官の権威があらゆる面で琉球政府に優先していた。

  昭和35年よりは日本政府援助が米軍政府のそれを上まわり、沖縄県民が物心両面の安堵感を覚え始めていた頃、ここに大きな事件が発生する。

  県内金融機関の眼に余る不正行為であった。そして民政府の再三にわたる勧告を無視し、これを律しきれない琉球政府と琉球司法機関に業を煮やした高等弁務官は、昭和37年から38年にかけて弁務官布令を発動し、銀行、保険会社などの金融機関や一部協同組合などの役員を一斉に検挙したのである。

  昭和38年3月5日、この高等弁務官ポール・W・キャラウェイ陸軍中将は有名は演説を行なった(奇しくもこの時の主席は大田という名前であった)。

「自治が故意に人を惑わす意図に使われている。政治とは実務的な問題を処理していくことであり、空想的な計画を作ったり、圧力団体がスローガンをさけぶことではない...」
「私としては『自治』を要求する声よりも、むしろその『責任』と『能力』の度合に考慮をはらわざるを得ない」として琉球政府を激しく非難したのである。

  この結果
  一、金融機関へ対する検査機構の確立と整理統合
  二、司法部門の質向上のため琉球政府司法試験合格者に対する研修体系の確   立(日本復帰の際、特例で彼らのほとんどに日本弁護士資格が付与され   た)。

等、当時の沖縄県行政機関は大いに活を入れられた。

  これに対し新里自民党幹事長(当時)は、「琉球政府が行政能力が低いとか、沖縄の政治責任の低さに対する弁務官の批判を謙虚な気持でききたい、行政府や地方自治体の自治能力を高めるべきことについて院(著者注、今の県議会)や党で検討したい」とコメントしている。

  この結果、沖縄の金融秩序は回復し、昭和47年の本土復帰の際、県内金融機関は大した混乱もなく大蔵省の隷下に入ることができたのである。

  5 目覚めよ沖縄県民!!

  さて昭和40年2月、米国はベトナム戦争に介入、国力を消耗したことによるドルの下落が顕著になった頃、沖縄は高度経済成長下の日本に復帰した。そしてこれに政治生命を賭けた佐藤総理(当時)は、「沖縄県民の積年の労苦に報いるため」と、多大な援助を惜しみなく投下したのである。

  ところが今、県内では、すでにこういった歴史を忘れ、「県民の自治意識が今日を作った」と吹聴する文化人やマスコミに影響されて沖縄の戦後世代は正確な情勢判断を誤りつつある。とくうに県内マスコミは県民に真実を伝えようとしないばかりか、紙面いっぱいに反基地、反安保のテーゼを連日展開している。

  先般、少女暴行事件を犯した米海兵隊員には、今なお憤りを覚えるが、実は県内における婦女暴行事件犯は平成7年、19件検挙されているものの、残り18件は米兵ではなかったのである。

  またあたかも軍用地主の多くが軍用地の賃貸契約を拒否しているかに報道されているが、実態は全地主の9.2%(約2900人)のみが反対しているのであり、面積比ではわずか0.2%である。しかも彼らの大部分がいわゆる一坪反戦地主である上、この半数近くが県外居住なのである。この数字を見ても、基地撤去は県民の総意では決してない。

  ひるがえって確かに米軍は強制的に土地を接収した部分もあったが、久志村(キャンプシュワブ米海兵隊基地所在地)にいたっては村議会の全会一致で村興しのために基地を積極的に誘致した。

  次に沖縄戦の惨禍を恨む余り地元には、「非武装中立」を主張する者もいるが、国際法上、中立国義務規定というものがあり、交戦国どちらか一方の勢力が自国の領海、領空に侵入したときはこれを排除する義務がある。そして万一、この義務を怠れば、もう一方の勢力より攻撃を受けても抗弁できないのである。

  さらに沖縄戦にいたる前、県内マスコミは好戦的な論調を展開していた。しか戦後左翼運動の頂点にいた長老2人は、それぞれ翼賛壮年団の島尻郡総務と、中頭郡の青年部長を務めていたのである。

  ところで敗戦の混乱の中で米軍がまったく日本国内に駐留していなかったと仮定した場合、少なくとも南西諸島の南半分は中国か台湾の支配下に入っていたであろう。とくに前者の支配下にあったとすれば、たとえ「本土復帰」を県民が主張したとしても武力で制圧され、復帰運動家は天安門事件のように戦車で轢殺されていたものと思われる。

  さらに戦後といえば、アジアでは、中国内戦(昭和21年)、朝鮮戦争(昭和25年)、ベトナム戦争(昭和29年)、カンボジア内戦(昭和50年)と殺戮が繰りかえされ、200万人以上が戦禍と飢えで死亡している。さらに同数の人々が今なお難民として流浪していることも忘れてはならない。今や県民は、平和を維持するための積極的国際貢献について議論すべき時にきているのではないだろうか。

  日米安保については、シンガポールのリークアンユー上級相(平成7年9月下旬、米マスコミとの会見にて)、及びフィリピンのラモス大統領(11月18日読売新聞記者インタビュー)が支持を表明しており、アジアの平和と安定のために同条約は不可欠である。

  また、平成3年、バングラデシュで発生した大水害に際しては、在沖米海兵隊が出動し、現地の復旧に多大に貢献をしているのである。日本経済が減速期に入り、しかも中台関係や朝鮮半島情勢が緊迫する中で、「20年以内に在沖米軍基地を撤去し、特別立法をして沖縄を経済特区にすべき」と理想論を主張する沖縄県にいたっては、またあの大正13年の悪夢をほうふつされられるのである。

  万一、「米軍基地全面撤去」が実際のものとなれば、県下の地価は急落し(現在、住宅地全国12位、商業地23位)、バブル経済後の沖縄の金融環境を直撃することになるだろう。

  6 沖縄-未来への提言

  沖縄の実態、そして歴史の真相は以上述べたとおりであるが、沖縄の未来に資するために次の提言をしたい。

  沖縄開発庁の廃止

  沖縄県は、他の県が行なっている国率補助等の県本来の業務を沖縄開発庁が代行しているため一種の甘えが生じており、現知事のような一部勢力と雷同して極端な政治行動を起こしているのが実態である。しかも県内における地方選挙の争点も開発庁の存在の結果、経済問題ではなく、「基地撤去」「福祉」などが中心になるため、どうしても反基地勢力に有利に展開している。

  そもそも地元マスコミT紙は昭和46年(復帰一年前)の社説において、「開発庁総合事務局の設置は戦前の内務省沖縄出張所の再現であり沖縄差別の象徴である」と開設に反対していた。

  また昭和7年には当時の沖縄県庁及び県身国会議員、地元の有識者により見事な「沖縄振興15ヶ年計画」を策定し立法化した経緯もあり、沖縄県民のポテンシャルは開発庁がなくても自立の可能性はあるものと思われる。

  政府に沖縄問題専門のスタッフを置き、沖縄発のデマゴーグには真実をもって反論すべし

  国会でも沖縄選出の代議士が明らかに事実に発する証言として在沖米軍の行動を制限しようとしており、政府及び腰で、反論すたできないのが実態である。これを放置すれば、在沖米軍幹部の日本政府不信は高まり、ひいては日米安保の運用にも支障をきたす恐れがある。

  本土沖縄間の正確な情報伝達手段を講ずべし

  沖縄では本土新聞は割高で半日遅れて届くため、県民は地元二紙を購読しているが偏向報道が多い。本土紙の普及を県内で図ることによって県民の視野を広めるべきである。

  また政府はあらゆる手段を使って沖縄県民へ近隣諸国の軍事的緊張、日米安保の重要性等を絶えずアピールすべきである。

  最後に政府は「沖縄に金さえ投下すればなんとかなる」といった安易な考えを早急に改め、沖縄援助は人材育成等のソフト面に重きを移すべきである。

  沖縄は地政学的に重要な位置にあり、政府が沖縄問題を安易に考え、在沖米軍基地を大幅に削減せざるを得ない情況に妥協したとすれば、中国の東シナ海進出の野望を助長し、我が国のシーレーンは大きな脅威にさらされることになるであろう。政府も国民も沖縄問題については絶えず真相を調べ、断固とした処置をとるべきである。

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