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        <title>恵隆之介著『敵兵を救助せよ』公式サイト― 武士道精神.com</title>
        <link>http://www.bushido-seishin.com/</link>
        <description>かつて帝国海軍にはこんな「武士」がいた！日本人の気概を伝えるサイト　「敵兵を救助せよ」の著者　恵隆之介公式サイト　武士道精神.com　です。太平洋戦争の激戦の中、大日本帝国海軍駆逐艦「雷（いかづち）」艦長工藤俊作中佐による世紀の救出劇。英国海軍将兵４２０名を、自らの危険をかえりみず敢然として救助することに成功したのです・・・</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
        <lastBuildDate>Tue, 09 Dec 2008 14:50:07 +0900</lastBuildDate>
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        <item>
            <title>海の武士道―Ｔｈｅ　Ｂｕｓｈｉｄｏ　ｏｖｅｒ　ｔｈｅ　Ｓｅａ</title>
            <description><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4819110306?ie=UTF8&tag=keiouassist-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4819110306">
<img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=keiouassist-22&l=as2&o=9&a=4819110306" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
<img src="http://www.bushido-seishin.com/img/uminobushido.jpg" class="imgleft" alt="海の武士道" /></a>
<ul>
<li>ISBN： 9784819110303</li>
<li>209p / 19cm / B6判</li>
<li>産経新聞出版　日本工業新聞社〔発売〕 （2008/12/08 出版）
</li>
<li>・惠　隆之介【著】</li>
<li>価格： ￥1,680 (税込)</li>
<br /><br />
<li>救助された元英海軍士官が来日、艦長の墓前で感謝の祈り。<br />
日本と英国を結ぶ武人同士の交流に感動と興奮の嵐が...。<br />
敵将兵４２２人を救助した駆逐艦「雷」艦長の心とは。<br />
<br />
戦後六十余年。<br />
いま蘇る武士道の全貌。</li>


<li>序章　武士道と騎士道<br />
第１章　英雄の揺籃<br />
第２章　海軍式エリート教育<br />
第３章　英米、日本の大国化を恐れる！<br />
第４章　日・米英決戦準備<br />
第５章　決戦<br />
第６章　ジャワ沖海戦<br />
第７章　駆逐艦「雷」昇天す<br />
終章　工藤艦長、「雷」へ帰る<br />
</li>
</ul>
]]></description>
            <link>http://www.bushido-seishin.com/book/umi.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">book</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">news</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 09 Dec 2008 14:50:07 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>海軍中佐工藤俊作顕彰会</title>
            <description><![CDATA[■墓前祭<br />

１２月７日（日）午後２時<br />
薬林寺会館　（埼玉県川口市）<br />
<br />
■顕彰式典<br />

１２月８日（月）午後５時<br />
グランドプリンスホテル赤坂　五色　「五色の間」<br />
<br />
・開式<br />
・国歌吹奏（英国国歌・君が代）<br />
・黙祷<br />
・実行委員長ご挨拶<br />
・世話人代表ご挨拶<br />
・ＶＴＲ上映<br />
・インタビュー<br />
・顕彰状・顕彰楯授与<br />
・サムウェル・フォール卿ご挨拶<br />
・記念楯の贈呈<br />
・外務大臣ご挨拶<br />
・英国大使ご挨拶<br />
・水交会会長ご挨拶<br />
・閉式<br />
<br />
■懇親会<br />

１２月８日（月）午後６時２０分?（顕彰式典終了後）<br />
グランドプリンスホテル赤坂　五色　「五色の間」<br />
<br />
・開会の言葉<br />
・来賓のご挨拶<br />
・来賓紹介<br />
・献杯<br />
・懇談<br />
・中締め<br />
<br />
<hr /><br />
<p>■海軍中佐工藤俊作顕彰会実行委員会■</p>
<table border="1" cellspacing="0" cellpadding="0">
 <tr>    <td>名誉顧問</td>
    <td>中曽根康弘（元内閣総理大臣）</td>
  </tr>
  <tr>
    <td>顧問</td>
    <td>麻生太郎（内閣総理大臣　日英議員連盟会長）<br />
        今井　敬（新日本製鐵株式会社名誉会長）<br />
       成田　豊（株式会社電通最高顧問）
    
</td>
  </tr>

  <tr>
    <td>代表世話人</td>
    <td>御手洗冨士夫（社団法人日本経済団体連合会会長）<br />
</td>
  </tr>


  <tr>
    <td>世話人</td>
<td>
栄久庵憲司<br />（株式会社ＧＫデザイン機構代表取締役会長）<br />
大橋洋治（全日本空輸株式会社取締役会長）<br />
清原武彦（産経新聞社代表取締役会長）<br />
清水　晃（元英国暁星国際大学学長）<br />
張　富士夫（トヨタ自動車株式会社代表取締役会長）<br />
日枝　久<br />（株式会社ﾌｼﾞ・ﾒﾃﾞｨｱ・ﾎｰﾙﾃﾞｨﾝｸﾞｽ取締役会長）<br />
福川伸次（財団法人地球産業文化研究所顧問）<br />
宮崎富哉（弁護士）
</td>
  </tr>

  <tr>
    <td>実行委員長</td>
    <td>平沼赳夫（衆議院議員　元経済産業大臣）</td>
  </tr>
  <tr>
    <td>副実行委員長</td>
    <td>細田博之（衆議院議員　自民党幹事長）<br />
鳩山由紀夫（衆議院議員　民主党幹事長）<br />
草川昭三（衆議院議員　公明党副代表）<br />
亀井久興（衆議院議員　国民新党幹事長）<br />
尾辻秀久（衆議院議員　参議院自民党議員会長）

</td>
  </tr>
  
<tr>
    <td>実行委員長代理</td>
    <td>藤井孝男（参議院議員）</td>
  </tr>


  <tr>
    <td>幹事</td>
    <td>久間章生（衆議院議員　元防衛大臣）<br />
中曽根弘文（参議院議員　外務大臣）<br />
恵　隆之介（作家）

</td>
  </tr>


  <tr>
    <td>事務局長</td>
    <td>古屋圭司（衆議院議員）</td>
  </tr>


  <tr>
    <td>事務局次長</td>
    <td>衛藤晟一（参議院議員）</td>
  </tr>

  <tr>
    <td>会計</td>
    <td>佐藤正久（参議院議員）</td>
  </tr>

</table>]]></description>
            <link>http://www.bushido-seishin.com/event/091209.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">event</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">news</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 09 Dec 2008 11:23:54 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>渡部昇一</title>
            <description><![CDATA[<p>美談を伝えよう　　　　　　　　　　　　渡部昇一</p>

<p>小学生の頃に読んだ雑誌か絵本の記憶から語らしていただく。その日露戦争についての記憶が正しいとすれば、上村彦之丞という艦長が、撃沈したロシアの軍艦の水兵たちを救い上げた。追撃戦に移って行けば更に戦果を拡大できたのに、そこで戦闘を中止して敵兵の救助活動に当たったのは、まことに「武士の情」を知っている人として称賛されていた。</p>

<p>そんなことを想い出したのは、最近、恵隆之介氏の『敵兵を救助せよ』という本を知ったからである。</p>

<p>昭和１７年（１９４２）３月のスラバヤ沖海戦で、日本海軍の駆逐艦「雷」が、撃沈されたイギリスの軍艦の乗員約４５０人を救ったという話である。その時に助けられたイギリス海軍の士官サムエル・フォール卿が、「雷」の艦長工藤俊作中佐の戦後の消息を捜し続けるという話である。</p>

<p>実はこの話を、３０年前ぐらいの「タイム」か「エコノミスト」の投書欄で読んだことがあった。日本人残虐説が一般的で、ジャパン・バッシングがあった時に、日本の軍艦に助けられた元イギリス海軍軍人の人の文章だった。私はこの話をその頃書いたものに引用したことがあるが、それがどうもフォール卿だったのではないかと思う。</p>

<p>工藤中佐は山形県ご出身だという。そして少年の頃に上村彦之丞提督の敵兵救助の話を読んで、海戦における武士道というものに感激したのではないだろうか、それがスラバヤ沖海戦で生かされ、それが戦後もイギリスの中に反日風潮の中でも、イギリス海軍関係者の中では、親日の気風が続いていた、ということにも関係があるのではなかろうか。</p>

<p>子供は美談に敏感なものある。新井白石の勉強ぶりとか、中江藤樹の親孝行の話を読めば、話の通りのようなことはできなくても学問に対する向上心が呼び起こされたり、親孝行は美しいもので自分もそうすべきだ、というぐらいの気になるであろう。道徳、あるいは徳目の起源については諸説あろうが、先人や他人の行為を見て「美しい」と感ずることができる時に、その行為につけた名前が徳目ではあるまいか。忠とか孝とか悌とか信とか、徳目の名誉の前には人を感心させた行為があったに違いない。</p>

<p>そしてよい徳目が発揮された話を読んだり聞いたりする人は感激し、共感し、心のどこかにその影響が残る。</p>

<p>最近では工藤艦長の武士道的行為の本を読んだという知り合いの中年婦人――私の娘ぐらいの年齢――が言った。「あの本を読んだら心が明るくなった気がしました」と。</p>

<p>道徳教育の一つの道は、われわれが「美しい」と感じるような実話を年少の者たちに伝えることではないなかろうかと思う。</p>

<p>健全な少年少女にとって、美しい、為になる話は、同時に面白いのである。教室で工藤艦長の話をすれば、子供たちの目は必ず輝くはずだ。われわれは世界中の美しい話、よい話、そして特に日本人の行った素晴らしい話を子供に伝えるべきであろう。</p>]]></description>
            <link>http://www.bushido-seishin.com/recommend/recommend01.html</link>
            <guid>http://www.bushido-seishin.com/recommend/recommend01.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">recommend</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 23 Sep 2008 21:44:19 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「工藤俊作  武士道精神の人」文芸春秋スペシャル（２００８年５月）</title>
            <description><![CDATA[
<p><strong>『文芸春秋スペシャル」-日本人へ　私が伝え残したいこと-』</strong></p>

<p>工藤俊作  武士道精神の人<br />
英国兵四二二名を救助した駆逐艦「雷」艦長<br />
恵　隆之介
</p>

<p>一．昭和の軍人も評価されるべき！</p>

<p>現在我が国には昭和の軍人全員を批判的に見る史観が定着している。</p>

<p>ところがこれに風穴を開ける一つの史実が旧敵国からもたらされた。しかも日本海軍と交戦した元英国海軍士官からである。</p>

<p>平成九年四月二十九日付「英ロンドンタイムズ」に、大東亜戦争中に帝国海軍駆逐艦「雷」（一六八〇トン）に救助された元英海軍士官が、命の恩人である艦長の工藤俊作中佐を紹介しながら、「友軍以上の厚遇を受けた」と言う体験談を掲載した。</p>

<p>投稿者は、元英国海軍中尉で戦後英国政府外交官として活躍したサー・サムエル・フォールである。彼はその功績により英国女王から「サー」の称号を贈られている。</p>

<p>ところでこの投稿にはかなりの勇気が必要であった。</p>

<p>戦後の日英関係は一見順風満帆のように見えるが、大東亜戦争中、帝国陸海軍に捕虜になった一部旧英国軍人たちが、当時の処遇に不満をもっており、現在でも強烈な反日運動を展開している。</p>

<p>折しもサー・フォールが投稿した翌月は、天皇陛下の英国訪問が予定されており、英国国内にはこの元日本軍捕虜達が中心になってご訪英を阻止しようとする運動が発生していた。</p>

<p>「ロンドンタイムズ」には、サー・フォールの投稿文と並んで、元日本軍の捕虜が投稿した一文が掲載された。内容は全く対立するもので、戦争責任を今上天皇にさえ追求すべきと言う過激な内容であった。</p>

<p>ところがサー・フォールの文章によってこの文はことごとく生彩を欠くことになる。</p>

<p>前文が少し長くなったが、英国国民を感動させた駆逐艦「雷」による救助劇とは</p>

<p>二．決死の敵兵救助劇！</p>

<p>昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」（一万三〇〇〇トン）、「エンカウンター（一三五〇トン）は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。</p>

<p>翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷」に発見されたのだ。</p>

<p>一方駆逐艦「雷」は直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じられ単艦でこの海面を行動中であった。</p>

<p>「雷」乗員は全部で二二〇名、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。</p>

<p>救助を決断した「雷」艦長工藤俊作少佐（当時）は四十一歳、山形県出身、当初は敵将兵の蜂起に備え、軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していた。</p>

<p>ところが艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入した。</p>

<p>一部英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、内火艇（艦載ボート）で救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。</p>

<p>ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。</p>

<p>一方サー・フォールは、当時の状況をこう回顧している。</p>

<p>「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。その瞬間、「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚されボートが下ろされたのだ。</p>

<p>サー・フォールはこの瞬間から夢ではないかと思い、何度も自分の腕をつねったと言う。</p>

<p>一方「雷」艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。</p>

<p>日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。</p>

<p>当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。</p>

<p>戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。</p>

<p>さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。　三．「武士道」は不滅　救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。　「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。　今年七月、サー・フォールは来日し、日本人有志と共に工藤艦長墓前で顕彰祭を挙行する。サー・フォールが戦後六十三年抱き続けた工藤艦長への思いはここに達成されるのである。　（１０月に変更）。</p>]]></description>
            <link>http://www.bushido-seishin.com/journal/j_018.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">news</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 30 Jul 2008 10:44:12 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>Q&amp;A</title>
            <description><![CDATA[<p><strong>Q,フォール卿の来日は７月から変更したのですか？</strong></p>

<p>A</p>

<p>フォール卿来日は７月の予定でありましたが、日英友好協会、英国大使館関係者からの助言もあって秋 に変更しました。<br />
理由は、<br />
（１）G8サミットが７月開催されるため英国大使館がサポートできない。<br />
（２）７月の猛暑では卿の身体に負担になる等の事由からです。</p>

<p><strong>Q,フォール卿の近況はいかがですか？</strong></p>

<p>A</p>

<p>２００８年６月２９日、 恵です。ロンドンからご報告致します。</p>

<p>フォール卿来日日程調整のため現在英国ロンドンを行動中です。昨日、早速郊外の老人ホームに卿を訪ねました。</p>

<p>卿は小生の来訪を、一日千秋の思いで待ておられたようで、玄関に手押し車に頼って立っておられました。卿は現在８９歳、心臓が悪いため、３年前よりずいぶん老いられたという印象を受けましたが、小生の来訪に喜 こばれ涙を流しておりました。</p>

<p>そして「今度こそ日本に行って、自分を救い、自分のその後の人生に影響を与えて くれた、工藤艦長ご遺族や駆逐艦『雷』関係者に会ってお礼を言いたい」と発言されていました。そしてお顔に生気がよみがえるのが見てとれました。帰り際には、「日本の皆様に感謝と敬意を伝えてくれ！」とおっしゃっておりました。</p>

<p><strong>Q,寄付金をこのサイトで申告するメリットはなんですか？</strong></p>

<p>A</p>

<p>サイト代表、恵隆之介からメールでお礼をさせていただきます。また、フォール卿来日と工藤艦長顕彰式の案内をメールでお知らせいたします。</p>

<p><strong>Q,フォール卿が、命の恩人に礼を言うため来日するのであれば、何も来日支援のカンパは必要ないのではないかと思いますが？</strong></p>

<p>A.</p>

<p>（１）現在も英国内には大東亜戦争中帝国陸軍の捕虜になった旧英国兵が、その処遇を恨んで、激烈な反日活動を しております。細川バカ首相の頃には、この首相がこの輩に謝罪し、「慰謝料は在英の日本企業から払わせる」と 発言したものですから、大変な混乱を生じてしまい、在英日本人会は大騒ぎになったこともありました。</p>

<p>ところが１９９８年４月２９日、フォール卿が、ロンドンタイムズに「戦時中、日本帝国海軍に捕虜になったが 友軍以上の処遇を受けた」と投書したところ、読者に感動を与え、以降この反日活動は急速にトーンダウンして行きました。しかしこの行為自体、当時としてはそうとう勇気を要するものでありました。</p>

<p>（２）１９８７年５月　東芝ココム事件が発覚し、冷戦下まっただ中でかつ対日貿易赤字増大で米国内では、もの 凄い日本叩きが起きました。またこの頃、欧米で、大東亜戦争中の日本軍の行為をなじる動きがありました。</p>

<p>この時、米海軍のアーレィ・バーク大将らが日本擁護に動き、騒ぎは沈静化しました。実は米海軍機関誌「プロシーディングス」新年号に、フォール卿が「騎士道」と言うタイトルで工藤艦長の行為を絶賛しており、米海軍はこれを７ページにわたって特集したのであります。</p>

<p>フォール卿は工藤艦長はじめ雷の乗組員を恩人と考えていますが、以上のように、当サイトでは、フォール卿こそ、日本の恩人でもあると考えています。</p>]]></description>
            <link>http://www.bushido-seishin.com/qa/QA.html</link>
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            <pubDate>Sat, 12 Jul 2008 17:41:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「サムエル･フォール卿来日支援及び故海軍中佐工藤俊作顕彰基金への募金お願い」ＰＤＦダウンロード</title>
            <description><![CDATA[<div align="center"><b>ただいま、賛同者の増加により</b><br /><b>趣意書等の調整をしております。</b><br /><br /><b>もうしばらくお待ち下さい。</b></div>]]></description>
            <link>http://www.bushido-seishin.com/download/collection_pdf.html</link>
            <guid>http://www.bushido-seishin.com/download/collection_pdf.html</guid>
            
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            <pubDate>Thu, 05 Jun 2008 18:48:25 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>募金応募申告フォーム</title>
            <description><![CDATA[<p>今回のフォール卿来日を実現させ、それを契機として<br />
今後の日英友好の活動へと繋げてゆきたいと考えております。</p>
<p>
・卿とともに有志で、工藤艦長および「雷」全乗員に対し墓前祭を挙行します<br />

・この美談を表題「The   Bushido over the Sea」として英語版を作成し海外で出版致します。<br />

・駆逐艦「雷」顕彰慰霊碑（工藤俊作顕彰碑）を建立致します。<br />

・日英両国間でそれぞれ留学生のホームステイを実施し、永遠の友情を育んで行きます。</p>
<center>
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<table border="0" cellpadding="5" cellspacing="1" class="formT" >
<tr><td height="30" colspan="2" align="center" class="cBule01"><big style="font-weight:bold">募金応募申告フォーム</big>　<font color="#CC0000">*</font>は必須項目です。</td>
</tr>

<tr>
  <td nowrap class="cBule02"><b class="List">お名前<font color="#CC0000">*</font></b></td>
  <td><input type=text name=name size=36></td></tr>
<tr>
  <td nowrap class="cBule02"><b class="List">メールアドレス（半角）<font color="#CC0000">*</font></b></td>
  <td><input type=text name=email size=36></td></tr>
<tr>
  <td nowrap class="cBule02"><b class="List">振込予定日<font color="#CC0000">*</font></b></td>
  <td><input name=date type=text id="date" size=36></td></tr>
<tr>
  <td nowrap class="cBule02"><b class="List">予定金額<font color="#CC0000">*</font></b></td>
  <td><input name=money type=text id="money" size=36></td></tr>
<tr>
  <td nowrap class="cBule02"><b class="List">メッセージ<font color="#CC0000">*</font></b></td>
  <td><textarea rows="15" name="comment" cols="40"></textarea></td></tr>

<tr><td height="30" colspan="2" align="center" class="cBule01"><input type=submit value="確認画面へ" class="cWhite"> <input type=reset value="リセット" class="cWhite"> 

<!-- <input type="checkbox" name="copy" value="on">送信内容のコピーをE-mailで受信する --></td></tr> 
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            <pubDate>Fri, 30 May 2008 12:06:52 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>お問い合せ</title>
            <description><![CDATA[<form action="/contact/mailform.php" method="post"><input type=hidden name="mode" value="do_form">
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<tr><td height="30" colspan="2" align="center" class="cBule01"><big style="font-weight:bold">お問い合わせフォーム</big>　<font color="#CC0000">*</font>は必須項目です。</td>

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<!-- <input type="checkbox" name="copy" value="on">送信内容のコピーをE-mailで受信する --></td></tr> 
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            <pubDate>Tue, 27 May 2008 17:12:16 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>平沼 赳夫（　衆議院議員　）</title>
            <description><![CDATA[「この事績をひろく世界に向けて発信する事は、日本国の国益としても大いなる意義がある。」
<br />
<br />
発起人代表　<strong>平沼 赳夫</strong>（　衆議院議員　）]]></description>
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            <pubDate>Mon, 26 May 2008 23:59:53 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>米国政府に対する「沖縄問題」打開への提言</title>
            <description><![CDATA[<div align="right">
  <p>評論家   恵隆之介</p>
</div>
<p>目次 </p>
<p>　プロローグ </p>
<p>  一　沖縄県民の習性について </p>
<p>  二　沖縄リーダーの実態 </p>
<p>  三　在沖米軍司令官の苦悩 </p>
<p>  四　沖縄はさらに混迷する </p>
<p> </p>
<hr width="100%" />
<br />
 
<p>　<strong>※プロローグ</strong> </p>
<p>　二十一世紀、アジア冷戦のテンションは確実に高まりつつある、この矢先、その最前線にある沖縄で徒に米軍基地の機能を逓減させようとする動きがある。 <br />
  　
  万一日米両国がこの分析と対応を誤れば日米関係みか東アジアの安全保障に重大な影響を及ぼすことになる。このためこれを回避するためにレポートを急ぎ作成した。 <br />
　
沖縄県民を始め日本人の行政能力は今や危機的状況にある。日本は第二次世界大戦後日米安全保障条約の結果、五十六年間一度も戦争を体験せず、また戦後復興を果たした後は国家目標を構築できないでいる。加えて戦後開始された「平和・平等主義」教育は戦略的思考のできるエリートの育成に失敗した。   <br />
　
日本は改革すべき様々な問題を先送りしてきたが、今やそれが限界に来ている。沖縄政策もその一つである。   <br />
　
沖縄では住民が首長や議員を選出するとき候補者がどれほどの能力があるかではなく、ゴルフや冠婚葬祭などの行事にいかに積極的に参加しているかなどの人気で決める。従って沖縄の政治家には勉強する時間がない、加えて最近彼らの政治スローガンには「基地縮小」「海兵隊削減、撤退」と言う文言を入れるのがムードになっている。   <br />
　
もはやこのような大衆迎合な政治家と沖縄地元大学には東アジアが今後どういう展開をするか、安全保障がいかに大事かといった研究をする意志もリーダーシップも期待できない、そして沖縄政治家や地元マスコミにとって基地問題に対し強硬発言することが自己ピーアールの手段ともなってきた。　   <br />
　
一方日本政府や沖縄に来る日本の政治家は問題をこじらせたくないので、沖縄の世論におもねる発言をする。こうして沖縄の反基地運動は恐竜の様に肥大化してきている。   <br />
　
ところで日本は日米戦争の敗戦の結果、軍事アレルギーが未だに強い、とくにマスコミがそうだ。そして国内には戦前とった対朝鮮、中国政策に強い贖罪意識がある。このテーゼが今度は沖縄問題に転用され、左翼勢力から「在日米軍基地の七十五％が沖縄に集中している」とか、「琉球王国（沖縄の中国名）が日本の侵略を受けて滅びた」などと言われると、政府は沖縄にやみくもに補助金を増やしている。一九七二年から二〇〇〇年までの二十八年間に実に一〇兆四０一八億円を投入しているのだ（中国ODAの約四倍）。   <br />
　
沖縄県民は言語学上も明らかに日本人であり、沖縄は一八七九年の日本帰属まで少数の中国系移民の統制下にあった。そして大部分の住民は共産主義体制下で農奴として呻吟していたのである。   <br />
　
米国は、ソ連の崩壊の結果、脅威と緊張が去り、軍のモラルは弛みがちである。加えてクリントン政権時代の軍人給与の減額、米本国内の好況の結果、優秀兵士の募集は容易ではないと思われる。   <br />
　
日本もこれと似た時代があった。第一世界大戦終了後の大正時代、そして戦後の高度経済成長時代である。とりわけ日本の自衛隊もこの時代指揮官は絶えず苦悩させられた。良質な隊員がなかなか集まらず、いったん彼らを外出させると想像もつかない事件事故を起こすことが度々あったのだ。   <br />
　
私もこの頃海上自衛隊の士官であったが、隊員を外出させる度に「事件を起こさないでくれ！」と神に祈る気持ちで見送っていた。   <br />
　
こういう時代だからこそ日米両国が緊密に連絡を取り合い、理解を深め、英米関係の様な成熟した関係を築くべきである。その際沖縄米軍基地の安定運用の為にも日米両国民が沖縄の真相と県民性を熟知し、冷静に対処する必要がある。   <br />
  
  <br />
  
</p>
<p><strong>一、沖縄県民の習性について</strong> </p>
<p>　沖縄に展開する在沖米軍兵士の約六十％一万五千人は米海兵隊である。今年一月二十三日、午後十二時頃その最高指揮官兼在沖縄四軍調整官のヘイルストン海兵隊中将が麾下海兵隊指揮官十三人宛に兵士の指導、綱紀粛正を厳命する電子メールを発した。　ところがその文中に稲嶺恵一沖縄県知事や吉田勝広金武町長を評して「Ｉｔｈｉｎｋ   ｔｈｅｙ　ａｒｅ ａｌｌ ｎｕｔｓ　ａｎｄ　ａ　ｂｕｎｃｈ　ｏｆ　ｗｉｍｐｓ」（彼らは変わり者で意気地がない）と表現した。 <br />
   
  これには訳がある。一月九日午後七時半、海兵隊員が金武町の民間地域で花壇に腰掛けている女子高校生のスカート下部を撮影し、そのボーイフレンドを含む男子高校生の一団にとりおさえられた。 <br />
　
本件は一月二十五日、「条例違反」と五万円の罰金という微罪で解決した。ところが地元マスコミは事件発生後三日目の一月十二日から「女子高校生へのわいせつ事件」と断定し、彼女の保護者の意向をも無視して一方的に報道を続けた。   <br />
　
沖縄県民は平和を愛すると言うが、暴力団員の数は人口十万人あたり六三人と全国平均の一、八倍を記録しており、レイプなどの凶悪犯罪を犯す率も全国的に高位にある（一九九六年など沖縄県内の婦女暴行事件の発生率は人口一万人比で０．二九と日本ワースト一を記録している）。   <br />
　
話を元に戻そう。   <br />
　
事件発生から二日目の一月十一日には当事者の米兵の所属するキヤンプハンセン（金武町在）の基地司令官マイケル・Ｃ・オニール海兵大佐が金武町長に謝罪した。ところが金武町議会はその翌日十二日、「（在沖縄）海兵隊の削減」の決議案を満場一致で可決し、続いて名護市議会が一月十五日に、こともあろうに沖縄県議会が十九日に同様に可決したのだ。   <br />
　
そればかりではない、金武町長は一月十四日に上京して防衛庁の佐藤謙事務次官に同様の意見書と抗議文を手渡した。そしてこの日、自民党の古賀誠幹事長までが共同通信加盟社論説研究会で、「米海兵隊の削減を検討する」というコメントを発しているのだ。   <br />
　
これに勢いづいた左翼は海兵隊撤退論を主張しつつある。   <br />
　
実はヘイルストン中将のメールの中にはこういう表現もあった。   <br />
　
「最近の金武町での出来事が拡大解釈されていることを話そう。うわべだけ我々の友人を装う地元の人間が我々を支持あるいは弁護しないことをいいことに、反基地主義者らが言いたい放題我々を攻撃する自由を与えられている。   <br />
　
この状態については先週、知事、両副知事、吉田町長、ある国会議員が『これはまずい事態だが、みなさんの努力は理解しているし、感謝しています』と私に直接言ってくれた。にも関わらず県議会が海兵隊削減をするのを弁護も何もせずに傍観していたのだ。」   <br />
　
ところが地元紙「沖縄タイムス」「琉球新報」のうち琉球新報が二月六日に県知事や金武町長を批判した箇所を抽出し、「彼らは頭の悪い弱虫だ」と訳した。そして「沖縄県民を侮辱した中傷メール」と大きく報道したのだ、そして沖縄タイムスがこれに追従し騒ぎは拡大したのだ。   <br />
　
そもそも琉球新報の編集局長高嶺朝一氏は一坪反戦地主であり、地元二紙は昨年七月、沖縄サミットの直前にもほぼ同時期に「米軍人の犯罪率は（県民）の一〇倍」という捏造記事を掲載していた（出所は弁護士で一坪反戦地主の新垣勉氏）。ところがこれが発覚して両紙共取消記事を載せることになったその時琉球新報だけは又「犯罪率は民間、米軍人らともほぼ拮抗」と捏造していたのである（真実は県民の二分の一以下）。   <br />
　
ヘイルストン中将のメール内容をめぐって左翼勢力や地元紙は中将の更迭を主張し、地元選出の仲村正治内閣府副大臣までもが同様に発言している。そればかりか仲村代議士は「（沖縄米軍基地が）冷戦時代のまま続いているのがおかしい」として在沖米海兵隊の削減にまで言及しているのだ。   <br />
　
ところで自民党沖縄県連幹事長の西銘恒三郎氏や地元マスコミは、「海兵隊削減は県民の総意」と言っているが果たしてそうか？ここに驚くべき事実がある。   <br />
　
一月十九日、那覇市議会でもこの海兵隊削減の議案が議論された、ところがここでは一人の勇気ある議員が「事件の真相が曖昧」と慎重審議を呼びかけ、二、三の議員もこれを支持したため議案は可決されなかった。問題はその後である、この市議の自宅へは左翼勢力やマスコミ関係者から抗議や嫌がらせのＦＡＸが入り、自宅周辺には「恥知らず、議員を辞めろ」等の貼り紙が四カ所にわたって貼られていたのである。   <br />
　
私はこの一連の動きに沖縄文学の祖伊波普猷氏がその著「古琉球」（一九四二年刊）で指摘した沖縄県民の最大欠点、「事大主義」をほうふつさせられた。金武町のキヤンプハンセンや名護市のキヤンプシュアーブ、いずれも今の世代の親達が誘致運動をして建設されたものである。   <br />
　
ところで一九六０年代前半まで沖縄住民の対米軍感情は現在とは対照的なものがあった。住民の方から「米琉親善」を謳い、地元紙二紙も米兵の事件事故に対して住民と同格に扱い、客観性を持って報じていた。それ以前一九五五年初頭、米第三海兵師団が日本本土から沖縄へ移駐してきた、そして戦後二回目の軍工事ブームで沖縄経済は好況に沸いた。   <br />
　
そのとき地元紙も反対するどころかかえって好意的な記事を掲載していたのである。   <br />
　
沖縄戦の直前、県民は一九二０年にニコライエフスクでロシア兵に多数の日本軍人や民間人が惨殺されたことを知っており、「白人は残虐だ」という固定観念があった。ところが上陸してきた米軍人の人道的援助にすっかり心を許し、戦前の共産党員までがプロアメリカンになっていたのである。   <br />
 
この結果戦後沖縄にとって二十七年間にわたる米国の投資と米軍統治は沖縄の安全保障のみかその振興に多大な業績を残すことになった。とりわけ戦前日本が持て余していた沖縄のデフレ要因、近親婚や不衛生な生活習慣、そして守旧頑固、男尊女卑の因習をことごとく吹きとばしてくれたのだ。   <br />
　
これは数字にも証明される。戦前沖縄県民のバランスシートは（一九三八年）オーバローン状態で、預金合計約六四０万円（旧円）に対し、借り入れ金合計約一六五十万円、その比率は沖縄戦開始まで拡大の一途をたどっていたのだ。ところが一九七二年復帰時点では、預金合計約三三六五億千三百万円に対し借入金合計二八九六億五千万円と好転している。人口も戦前のピーク五九万七千九百二人（一九三七年）から復帰時には六〇，五％上昇し、九五万九千六百十五人を数えるに至っていたのだ。   <br />
 
筆者の母も戦前小学校しか出れなかったが、戦後基地内のスクールで英語とタイプライターを学び、その後事業を始めて香港、台湾、東京を飛びまわりキャリヤウーマンの先駆を果たしていた。この頃沖縄各地の塾には英語を学ぼうとする青年男女で溢れていた。まさに戦後沖縄は米国版のシンガポールになろうとしていたのだ。   <br />
　
ところが、一九六０代後半に入ると県民自ら歴史を逆回転させるようになる。ベトナム戦争の後半から地元マスコミや大学が日本の左翼運動家に連動するようになったのが主因だ。そしてニクソンショックによってドルが対円レートで急落すると沖縄県民の米国熱は急速に冷めていった。さらに復帰後の補助金漬けの日本の施策は折角芽生えていた県民のベンチャー精神をも奪った。   <br />
　
一方琉球新報はかって「米軍のヒュマニズムに感謝」などと報じていたものが（一九六三年八月）、今や米軍の善行に関しては決して報道しない。   <br />
    
例えば昨年十一月十三日、キャンプキンザー（沖縄県浦添市所在）の司令官ポール・Ｒ・パケット海兵隊大佐が脳梗塞で死去した。その直後大佐の臓器は、九州の在住の二人の日本人に提供された、米軍人による初めての臓器移植である（ＮＨＫラジオ十一月二十七日全国報道）。そればかりではない、県民は多くの在沖米軍兵士がドナーカードにサインを既に済ましていることや、失踪した沖縄児童の捜索に参加しょうとした米軍人ボランテアが市の労働組合員に追い返えされた事実など知る由もない。   <br />
　
ここで注意しなければならないことはこの地元紙二紙の合計シエアーが県内で九七％を占めていることだ。この強みは沖縄では人が死ぬと紙面に広告を出し、当人の生前の肩書きやその関係者、そして親戚、知人、友人をできるだけ多く掲載する習慣がある。この広告料がべらぼうに高いのだ（日本本土では個人のみ掲載、その際料金は無料）、そしてこのシステムと価格を両紙が複占状態にしているのだ。   <br />
　
しかも日本本土の新聞は内地より価格が約五十％高く、空輸されてくるため半日から一日遅れて届く、このため地元紙による県民へのマインドコントロールは当分続くことになる。   <br />
  
  <br />
  
</p>
<p><strong>二、沖縄リーダーの実態</strong> </p>
<p>　稲嶺知事は「基地削減」と自ら日米両国政府に訴えながら、普天間海兵隊飛行場の県内移設に伴う基地縮小プログラムに関しては何の理論的根拠もない十五年という使用期限を主張している。しかも当選後一年以上経過してからこの数字がでて来たのだ、この結果、移設作業は難航を極めている。 <br />
  　
  また二年前の選挙で左翼勢力をバックにする大田昌秀県知事に勝利したものの、「報復人事は行わない」として副知事、出納長を省く大田氏のスタッフを一人も辞めさせてない。 <br />
　
その稲嶺恵一知事のリーダーとしての資質については疑問を程する県民は少なくない、副知事でさえ「知事は一人では決断できない人だ」と口外している。   <br />
 
大体マスコミ自身も知事に対して「思いつきで発言するクセがあるから必ず裏をとらないと記事が書けない」などと記者仲間で話している。彼らは時にはその言葉尻を捉えては知事を追求し、さらなる思いつき発言を引き出すのを楽しみにしている。   <br />
　
金武町長のリーダーシップも疑問がある、   <br />
  彼は一坪反戦地主である、そして後述するが町内の少年少女の非行問題には何ら是正する努力をはらっていない。 <br />
　
金武町に関しては行政のレベルを示すこういう話もある。一九九九年九月、金武町長は放漫経営で経営難に陥った琉球銀行を救済するため、約二千万円の公金を議会の承認もないまま支出して増資に協力している。日本本土であればたちまち議会から糾弾され、町民からは監査請求が出されるところだった。   <br />
　
ただこの年の五月、金武町長が米軍楚辺通信所の移設受け入れを表明したため、日本政府から金武町にはＳＡＣＯ（日米特別行動委員会）交付金として使途自由な二億七千万円が支給される事になった、この思わぬ収入に議会も町人も問題意識を失っているのであろう。   <br />
  
  <br />
  
</p>
<p><strong>三、在沖米軍司令官の苦悩</strong> </p>
<p>　一月二十三日ヘイルストン中将がメールを発した日の午後二時、「米兵の事件事故を防止する臨時会合」が外務省沖縄事務所で野村一成沖縄大使の司会の下で行われた。出席者はヘイルストン中将以下米軍幹部、防衛施設庁幹部、副知事、金武町長らである。席上県側は米軍側の綱紀粛正を強く求めた。 <br />
   
  これに対しヘイルストン中将は一方で強い不満を表明し、「米軍が地域社会に貢献していることが地元では評価されていない」と発言している。 <br />
　  
  <br />
　
一月九日金武町で起こった米兵と地元女子高校生とのトラブルを調査するうちに私はヘイルストン中将の心境が痛いほど理解できたのだ。   <br />
　
一月下旬筆者は、事案発生現場へ発生と同時刻の午後七時半に行って調査したところ、付近住民が「地元紙の報道が一方的だ、ここは不良のたまり場だ」と防衛施設庁に通報した通り、すでに日没であるのにかかわらず女子中高校生が制服で多数徘徊しており、片方では男子生徒が集団で奇異な行動をしていたのだ。なにしろ県道から事件現場へ通じる道路の入り口には、「金銭ゆすりは刑法犯」と言う立て看板まであるのだ、こういった光景は日本ではまず見られない。   <br />
　
金武町長はこのような状況を放置しながら一月二十四日には外務省北米局と内閣府沖縄担当部局を訪ね「米兵教育の徹底」を求めている。   <br />
 
実は沖縄少年の非行率は保護処分率が例年三〇から四十％と、日本全国平均の約三倍、少年院に送られる率も全国平均の五倍以上に達している。   <br />
 
日本のメディアも問題の真相を検証しようとせず、沖縄マスコミの報道をそのまま鵜呑みにして日本全国に報道して騒ぎを大きくしている。   <br />
 
一方地元マスコミや県庁は基地の環境汚染問題を次ぎのターゲットにしている。ところが一九九八年厚生省は日本全国市町村の最終処分場千九百一カ所を調査したところ、沖縄の民間処分所三十カ所のうち七三％の二十二施設が基準違反と指摘されており、地下水の汚染を始め重大な環境汚染を起こす恐れがあると警告されている。にもかかわらず県や市町村長らは何ら是正する努力をしていない、いずれそれが顕在化するとまた基地に転嫁する恐れがある。   <br />
　
日米両国政府内には嘉手納米空軍基地の運用を確保するため、県民世論に妥協して海兵隊を沖縄から撤退させようとする意見もある。もしそうなれば勢いついた左翼勢力は次のターゲットを嘉手納に指向し、環境問題を絡めて撤去運動を展開いくことになろう。   <br />
　
最後に稲嶺県知事についてもう少し述べておこう。日本政府と沖縄県の奇妙な関係が一層みえてくる。   <br />
　
知事の給与は二千八百五万円、九州七県中で大分県の平松知事に次いで二番目に高い、これと対照的に沖縄の県民所得は約二百十五万円と全国最下位にある。稲嶺知事は仕事量に比べて明らかに取りすぎである。   <br />
　
日本全国で沖縄の年間予算だけは内閣府沖縄・北方担当相が一括計上しており、沖縄振興のプランニングも内閣府の沖縄振興局と政策統括官が行っている。そして米軍との交渉は実質的には外務省沖縄事務所があたっているのだ、極論すれば他府県の県庁に比べて沖縄県庁は殆ど機能していないといえる。   <br />
 
ところで県総務課は稲嶺知事の給与は前職の琉球石油株式会社会長時代に比べて百九十三万円減ったと言っている。この琉球石油を読者は知っているだろか？   <br />
 
その会社は知事の父君故稲嶺一郎氏が戦後設立したもので、米軍統治時代、米軍に取り入って域内で最大の利権を得ていた。そのこともあって沖縄の日本復帰の際には復帰反対派へ資金援助までしていたのである。   <br />
　
ところが稲嶺恵一氏は一九九六年八月、故梶山官房長官の私的諮問機関として設立された「沖縄基地懇談会」（島田懇）の副座長に就任するや、沖縄の米軍基地について否定的な発言をするようになって周りを驚かせた。   <br />
 
稲嶺氏はこの頃から政府が沖縄の反基地運動をさらなる補助金のバラまきで押さえようとする時流と、地元マスコミや左翼グループに抗するだけの見識と勇気を持っていなかった。   <br />
 
二月八日、ヘイルストン中将は正装で県庁を訪れ知事に謝罪した。その際知事は感情を顕わにし、握手もしょうとせず「沖縄は五十六年間の蓄積されたマグマの上に立っている（後略）」と発言し席を立った。テレビで放映されたこのシーンに「国際儀礼をも弁えていない」と、支持者の間にも批判の声があがっている。そして知事のリーダーシップの欠如の結果、今その後援会や保守勢力にも亀裂が生じているのだ。   <br />
　
私は一九二六年日本の小説家広津和郎が中央公論に「さまよへる琉球人」を著していたのを思い出した。広津は一沖縄県人の言葉として「長い間内地人から圧迫を受けている琉球人は、内地人に対して信義を重んじようなどという心を持っていない、無論人によるが、そういったような傾向が大体ある。」と紹介しているのだ、   <br />
　
実はこれと同じ頃沖縄経済は破綻しており、県選出の国会議員四名が連名で日本政府に救済案を提出していた。その中に「植民地のごとく特別会計に改めて貰いたい」と言う政策オプションをも挿入していたのだ。   <br />
　
この様に沖縄県民は第二次大戦以前から政治的パッシォンが強く、反面生産活動特に教育を疎かにすると言った他律的な性格があった。そしてこれは七十五年経過しても殆ど変化していないのだ（ただ戦前沖縄には米軍基地がなかったため日本国民は過剰反応しなかった。）   <br />
  
  <br />
  
</p>
<p><strong>四沖縄はさらに混迷する　</strong> </p>
<p>　最近沖縄経済の財政依存度は一九七二年の復帰時より一０・六％も上昇し三四・二％と全国平均の二倍にも達している。 <br />
  　
  加えて沖縄の高い失業率（日本本土平均の約二倍)を救済するため日本のＩＴ関連企業四五社が県（国）の補助を受けて進出している。ところが経営者達は沖縄出身青年の労働意欲に疑問を呈している <br />
　
そして地元の青年はこの様な保護処置で県外に出ようとしない、従って国際情勢など知る由もないのだ。   <br />
　
安全保障上も混乱の危機にある。一九九七年八月、沖縄県議会議員超党派の一行が平嬢に招待され帰国した、その後彼らは異口同音に「北朝鮮は戦争する国ではない」と言い出している。また県内の北朝鮮派シンパサイザー「チュチエ思想研究会」のグループと日本の公明党、社民党等が国連機関の沖縄への誘致運動を活発に展開している。   <br />
　
そして最も懸念されることは、中国に対する誤った歴史観が醸成されていることだ、琉球大学の教授らによって作られたもので、内容は琉球王国は独立国で、民衆は平和と自由を享受していた、そのとき中国が最も良きパートナーであったというのだ。   <br />
　
一方香港「東方日報」は一九九七年五月二十七日「琉球も本来中国に属すべきもの」と発言しており、今後中国は沖縄がかって四百年にわたって中国皇帝に朝貢していた史実をあげ、沖縄の領有を主張してくる恐れがある。   <br />
　
ここで米国政府に提案することがある、一日も早く日本に国家としての自覚を覚醒させて貰いたい。このため片務的な日米安保条約を改訂し、日本に応分の責任分担を担わせることである。　そして沖縄政策においては、米国のプレゼンスを将来的にも継続させるため、日米交流の架け橋になるような人材を育成するべきだ、そのために基地内の小中学校に沖縄の児童を選抜して入校させることを提案したい。   <br />
　
かって沖縄のガリオア・フルブライト留学制度の結果をみれば解るように、エリート教育は大学からでは遅すぎたのだ。   <br />
　
またハワイ太平洋軍司令部が行っている様なアジア太平洋地域の信頼醸成のための各国軍指揮官の集会を沖縄で開催するのもいい。   <br />
　
ここではっきり言うが、米国が地域紛争に最も有効な抑止力である海兵隊を沖縄の作られた世論に引きずられて削減又は撤退させることがあれば、それはあらゆる方面に誤ったシグナルを送ることになる。   <br />
　
ところで一五世紀、中国は東シナ海及び南シナ海の制海権を手中入れたことがある、その時日本は孤立し、アジア諸国は彼らの覇権に入っていったのだ。もし沖縄から米国のプレゼンスが去れば、東シナ海は今の南シナ海同様、中国の影響力が拡大し、米国の国益も甚だしく脅かされることになろう。   <br />
</p>
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            <pubDate>Mon, 26 May 2008 23:40:30 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>沖縄よ、振興策に甘えるな 「Ｖｏｉｃｅ」（1999・平成11年5月号）</title>
            <description><![CDATA[<p>米軍基地という"担保"を失う前に改善すべき四項目  </p>
<hr width="100%" />
<br />
 <p>平成四年九月政府決定の第三次沖縄振興計画は、残すところあと三年となった。本土との格差是正、自立的発展の基礎条件の整備などが骨子となってはいるが、はたしてその目標は達成されたであろうか。  <br />
  最近、地元紙『琉球新報』(平成十年十二月二十三日付)に次の投稿があった。  <br />
  「古里恋しの心抑え難く毎年一、二度帰省するがそのたびに、沖縄はとても豊かで､人々はぜいたくだなぁと思う。私見だが全国一の失業率の割には、県内どこの地域に行っても、それほど就職に苦しむ人の姿は見られない。&lt;中略&gt;　私の住む大阪では、働き盛りの若者達が、職業安定所に列をつくり、ホームレスの人々が町にあふれている。しかし沖縄では、私の生まれ島の宮古の離島や、やんばる（注・山原、本島北部地域）で住む人のない家屋が空家と化しているのをよく見かける。それほど沖縄は住生活においても食生活に劣らず、他県に比べてぜいたくであるように思う。&lt;後略&gt;」（「異郷で沖縄を思う」東大阪市在住､元長栄氏、七十三歳）  <br />
  このような状況でありながら、「沖縄振興」という文言が依然マスコミを賑わしている。とくに大田知事落選以来、沖縄は基地問題にかわって振興策が一層声高に叫ばれるようになってきた。所得一千万円以上の高額所得者の数（人口一万人比）ではすでに四十七都道府県中十八位にありながら、県民総支出に占める国の補助金の比率は、昭和四十七年（復帰時）の二三・六％から平成七年には三四・二％と、一〇・六％も上昇している（全国平均補助率約一八％）。今後は沖縄自立のため、従来の振興策を根本から見直す必要があるのではないだろうか。その前に沖縄の歴史を検証してみたい。  <br />
  沖縄史は魔性の歴史である。廃藩置県当時、琉球は日支両属の政体をとっていた。わが国は清国の干渉を恐れて沖縄近代化に思い切った処置がとれなかったばかりか、その支配者層を懐柔するため旧慣を温存し厚遇した。加えて琉球士族らは、既得権の維持に固執し政府の近代化策をことごとく妨害したのだ。  <br />
  日清戦争によって清国が敗北するや、沖縄はたちまち政治的担保を失い、かつわが国は朝鮮、台湾等の植民地開発へ国力を傾注することになった。このため沖縄政策はまた放置された。  <br />
  ところで現在、沖縄には米軍基地という政治的担保がある。このため政府は沖縄の要求を聞かざるをえない。しかし今後の極東情勢、あるいは軍事技術の進歩いかんによっては、それが大幅に縮小される可能性があるのだ。いまこそ県民は自立するに足る社会構造の構築に真剣に取り組む必要がある。以下、この観点に立って改善すべき四項目を列挙し、私見を述べる。  </p>
<p>まずは新聞再販制度の適用から  </p>
<p>北海道はかつて『北海道新聞』が圧倒的シェアを占めていたが、読売新聞社が昭和三十四年五月に札幌支社を開設し、同時に現地印刷を開始した。その結果、地元紙との競争も始まり、最近では北海道庁の不正経理問題が同社によって摘発されるなど、道内のマンネリ化現象を是正することができた。  <br />
  沖縄を振興するには、このようにまず県民に多元的な情報を提供することだ。  <br />
  ところが沖縄では『沖縄タイムス』『琉球新報』の地元二紙が県内合計シェア九七％を占めており、紙面構成も本土紙と対照的に、記事対広告の比率が四対六となっているばかりか、両紙とも県内事情に固執している。とくに基地問題や過ぎし沖縄戦への論述が多く、最近のユーロの発足さえ両紙には論述が見出せなかった。  <br />
  また本土紙は空輸に頼っており、県都・那覇市でさえ日刊は半日、夕刊にいたっては十九時間遅れて届く。わが国新聞業界がテーゼとする新聞再販制度｢国民の誰もがどこに住んでいても同一紙は同一価格で、迅速確実な戸別配送により、どこでも誰でも公平かつ容易に好きな新聞を選択購読できる｣（日本新聞協会会長、小池唯夫毎日新聞社社長）が沖縄にだけ適用されていない。県内ビジネスマンのなかには本土紙を早朝、東京からファックスで取り寄せ、繋ぎ合わせて読んでいる者もいる。とくにビジネスには情報が勝負だ。半日から一日遅れの情報では本土と競　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　争にならない。  <br />
  ところで地元紙は経営面でも特異なものがある。価格は、本土紙が航空運賃の加算もあって地元紙より平均二四％も高いのだが（九州版比較）、地元紙の定期購読を始めると本土スポーツ紙がサービスとして無料で配布される。本土復帰にともなう特別措置で税法上の特例措置があるため、このような経営ができるのであろう。  <br />
  もう一つ問題がある。両紙の社説を含め紙面で使用される語▲がきわめて少ない。これでは言語の面でも他府県出身者とのコミュニケーションに不足が生じてくる。とかく沖縄社会は縁故主義（ネポティズム）が強く、戦前からコミュニケーションへの配慮は希薄であった。このため県民の標準語の励行が長く叫ばれてきたのだ。  <br />
  昭和三十年八月、琉球大学が招聘した東京からの教授団山根団長以下二十九名は、沖縄教職員と対談した印象として「沖縄教員の要点把握力、表現力が弱い」と指摘し、その原因として「会話のなかで語▲が少ないこと、教職員の読書量が少ないこと」などの点を挙げている。  <br />
  最近、新たな事実が発覚した。平成八年九月十日、橋本首相が大田昌秀知事（いずれも当時）が沖縄米軍基地用地強制使用のための広告・縦覧手続きの代行を応諾したことにより、沖縄振興特別調整費五十億円の支出を臨時閣議で決定した。そして国は県の要望に基づき、その一部十一億円を「雇用創設資金」の名目で県の自由使途としたのだ。  <br />
  一方、十年九月、地元某新聞社は新社屋をつくることとなり約七十億円の資金が必要となった。そこで､当時､沖縄県庁は十一月十五日に知事選を控えていたこともあって、この新聞社に雇用創設の名目で資金の一部六億五百万円を無利子でしかも十五年サイトで融資したのある（当時三年間、返済据え置き）。県は、紙面広告でも地元新聞社にとっては上得意である。当時、銀行の貸し渋りで資金がタイトになっていた地元企業からは怨嗟の声が上がった。また、本土紙の記者のなかからは報道の客観性が失われると批判の声さえ上がったのだ。  </p>
<p>箱物行政では教育問題は解決せず  </p>
<p>明治三十四年、沖縄教育会発行の雑誌『琉球教育』に沖縄青少年の無気力が問題提起されている。本土では四民平等の太政官令がすでに配布され、青少年が新たな時代に向かって学業に専念しているころである。当時、沖縄青少年はこれを知る由もなかった。昭和を迎えると、地元青年のなかに、貧困を国の差別政策と曲解し、アナーキー運動が生起してくる。昭和二十八年に北京で客死した元日本共産党書記長・徳田球一氏（本島北部・名護町出身･当時）が、その代表的人物だ。  <br />
  戦後、本土では公立学校教員の政治活動を禁止する教育二法が昭和二十九年六月に公布された。ところが琉球立法院は同様な法令の立法を試みたものの沖縄教職員会や労組、反戦団体の執拗な阻止行動にあって断念し、昭和四十七年五月の復帰まで教職員の政治活動は放置された。とりわけ主任制は、昭和五十六年四月になってようやく実施されたのだ。その結果、学校現場は著しく荒廃し、教職員でさえ、子女を中学のころより県外へ進学させた。  <br />
  坂田道太文部大臣（当時）は昭和四十五年九月十八日、教育事情視察のため沖縄を来訪したが、その偏向教育を厳しく批判した。一方、昭和三十八年一月、倉沢栄吉文部省視学官以下二十四人の教育指導委員は、当時の教育事情をこう要約している。  <br />
  ?   沖縄の子供達は余り勉強をしない、とくに高校生がそうだ。某高校を訪れて教師達と話しあったが、数学などの話はひとつも出ず、ずうっとどうしたら勉強するかといったものばかりであった。学習意欲の面で指導者も十分に考えなければならない。  <br />
  ?   大学進学率を考えても、現状は特恵処置によって辛うじて維持されていることを忘れている。国費、自費留学生制度で本土より程度の低い試験を沖縄で実施されているのだ実態だ。学習意欲のある生徒は現在のところ、特定の学校の更に特定な生徒しかいない。これでは本土に追いつけない。  <br />
  ?   躾面での厳しさが足りない。言語、礼儀、とりわけ始業の鐘がなってもクラスに行こうとしない。だらだらして、そうかと言うとすぐ教室に土足で上がる。最近中学生の犯罪が過去平均の三倍になっているというが、裁判所でその原因を調べてみたら授業が嫌と言っている。教員はもっと反省すべきではないか。  </p>
<p>戦前も、沖縄青少年の教育については物議をかもしていた。これがため沖縄出身者は移民や出稼ぎ先で県外出身者とたびたび齟齬を来たしていたのである。危機感をもった県民は浄財を募り昭和九年六月十一日、那覇市若狭に開洋会館を開設した。移民を希望する若者を対象に寮生活を行わせ、そこで徹底した機会教育を実施したのだ。当時の指導員は学校教員やＯＢがボランティアであたり、若者と起居をともにしながら再教育するというカリキュラムであった。  <br />
  ところが、また教育問題が沖縄の最重要課題となってきた。  <br />
  沖縄県警によると平成十年中に補導された少年は二万三千七百十一人を数え、前年同期比二五・六％増加、そのうち凶悪犯も前年の二倍にのぼり人口一万人比では全国一位である。また沖縄教職員のモラルは低落しており、不祥事件が多発している。女子生徒への暴行、飲酒運転による生徒ひき逃げ、父兄への不当な金銭要求など、平成十年度は十月までにすでに十件を超え、例年の二倍を突破しているのだ。今年一月、県内大学卒業予定者の就職内定率が発表された。全国平均八〇％を記録しているものの沖縄は二六・六％と低迷している。原因は学生に就労意欲がないこと、父兄を含めての県外への就職を忌避していることが挙げられる。  <br />
  現在、沖縄米軍基地問題懇談会（座長・島田晴雄慶應大学教授）が「沖縄こども未来館」の建設を進めている。用地取得費だけでも約三億円という大型プロジェクトだ。館内にテーマパークを設置し、もって青少年の向学心を誘引しようとするものである。しかし、沖縄の教育現場はもはや従来の箱物行政では問題解決にならないのだ。早急に教師の質そのものを変革する必要がある。  <br />
  では、どう対処すればいいか。  <br />
  戦前、わが国で行った朝鮮､台湾への教育投資の手法を踏襲することだ。戦前、これらの地へ赴任すること本棒に手当が七割加算されたばかりか、十五年でついた恩給が十年に短縮されたのである。このため、優秀な教育人材は続々と両地へ赴任していったのだ。そこで県が主体となって各県教育委員会より実績のある教員を選抜させて一定期間沖縄へ招致し、かつこのような厚遇策をとることだ。  <br />
  そうすれば、県教育界への刺激にもなり、日本人としてのアイデンティティも醸成される。なによりも県民のヒポコンデリー状態（自分だけが被害者だと思い込んでうつ状態に陥る現象）も打破できるのではないだろうか。  <br />
  もう一つは、現行の教育システムの改革である。全体的な教育水準のレベルアップも緊急の課題であるが、それでは県の標榜する国際化に間に合わない。県下に一校はエリート校を指定し、シンガポールのように各小学校の四年次から優秀な生徒をそこに集め、英語、コンピューターなどの高等教育を行う。また、中学校からは英国のパブリックスクールのように全寮制にして徹底した躾教育を行うことだ。外国人教師は、現在県内に居住する米軍基地内大学やアメリカンスクールの米国人教師計八百名のなかから招聘すればコストもかからない。  <br />
  シンガポールのように英語が県内どこでも通用し、県民のほとんどがコンピューターを駆使できるようになれば、沖縄経済のポテンシャルはその地勢的優位性とともに飛躍的に向上する。  <br />
  長野県小海町などでは、すでに町の公共事業費を削減して教育投資にあて、独自の教育行政を行っているのだ。  </p>
<p>五十三市町村を四市郡に </p>
<p>沖縄には琉球藩時代の遺物がある。現行の沖縄の行政区である。  <br />
  明治三十六年十月、明治政府は琉球藩独特の統治システム、土地共有制（地割制･原始共産制）を廃止して農民による土地の私有制を開始する。そして四十一年四月一日、勅令により沖縄県および島嶼特別町村制を施行した。ところが、これは旧藩時代の行政区を踏襲しており、沖縄行政区は二区四十六村となった。しかも村頭（いまの村長）には、ほとんどが旧藩時代の間切り番所役人が就いていた。また翌四十二年五月には特別県制が施行された。特別となったのは、土地私有制の開始によって農民の生産意欲は高まったものの、中年以上の識字率が本土と比較してきわめて低かったため、一般県制は困難であったからだ。  <br />
  ところが、大正五年ごろより『沖縄朝日』をはじめとする地元紙が本土並みの一般県制および市町村制の早期実現を要望するキャンペーンを展開、県内は一般県制を求める言動一色となった。こうして大正九年五月二十日に一般県制が実施された。ところが、そこに大きな県民の錯誤があった。他府県にような市町村の統廃合を行うことなく、制度だけを真似したのだ。ちなみに本土では廃藩置県当時、三府三百二県あったものが、明治四年十一月には三府七十二県に統合され、また町村も明治二十一年の市町村制の公布前に七万以上あったものが一万五千に統合されている。ところが、沖縄は一般県制施行時、かえって二市三町五十村と総数で増加していたのである。  <br />
  明治二十七年当時、内務省の調査資料によると県下行政区平均吏員数十八人を数え、本土類似団体に比較して十一人多く、平均給与も沖縄が平均八一・七銭と本土平均の約二倍にも達していた。  <br />
  話を大正時代に戻そう。沖縄市町村は一般県制移行によって特別補助費が削減され、加えて大正十三年には折からのバブル経済の崩壊を受け、財政が次々に破綻した。そして、役場職員のみならず義務教育課程の教員の給与さえ不払いとなり、閉鎖される学校も出た。沖縄社会は、近代化どころか衰退の一途をたどっていったのだ。  <br />
  沖縄はこの歴史の教訓をまったく学んでいない。沖縄の行政区は現在、五十三市町村を数えている。本土では戦後も昭和二十八年から三十一年にかけて市町村合併促進法、新市町村建設促進法が施行され、約九千五百あった町村が三年間で三分の一の三千五百に統合されている。一方、戦後の沖縄でも，琉球政府が四十四年十二月域内市町村に統合する計画を策定し、また前後して若干の市町村の統廃合も行われた。ところが沖縄独特の門中意識と地域主義が障壁となって、その計画は実現されていない。そればかりか、戦後の沖縄は日米領国政府の援助もあって、人口が急増し、一市二町五村が新たに発足している。  <br />
  したがって、沖縄の市町村は基地面積を減じなくても狭小である。平成十年九月現在、市部全国平均面積一六五・九八平方キロメートルに対し沖縄は七二・七六平方キロメートル、町村部にいたっては本土平均一〇三・八三平方キロメートルに対し、なんとその三分の一の三五・七六平方キロメートルにすぎない。しかも役場職員の数が本土類似団体（人口千人あたり）に比べて約一割から二割多く、ラスパイレス指数が百を超える市町村が県下に八つもあるのだ。加えて、沖縄県は平成元年に生活保護世帯が一万三千軒を超え、平成七年には人口千人あたりの被保護実人員でも全国五位にある。  <br />
  現在、沖縄の特徴は、狭小な行政区と対照的にひときわ目立つ大型の市町村庁舎が林立していること。さらには、県をはじめ六市三町五村が計二十七の第三セクターによる事業を経営しており、十八以上のそれが漫然と赤字経営を行っている。これでは、いくら国が補助金を交付しても固定費をまかなうだけで精一杯の状況にあるのだ。  <br />
  ところで、これほどまでに沖縄の行政問題が放置された原因は、どこにあるのか。それは基地問題に転嫁して真剣な議論を回避してきたことにある。一例を紹介する。極東最大の米空軍嘉手納基地に隣接する嘉手納町だ。  <br />
  ここは旧陸軍中飛行場が戦後拡大され、米空軍が建設された。その際、住民は基地からの収入が確保できることもあって二十三年十二月に北谷村（当時）から独立して嘉手納村を設立、さらに五十一年一月には町制を施行した、ところが同町の総面積はわずか一五・四平方キロメートルしかなく、しかもその八二・九％が基地のなかにある（実質町面積は二・五平方キロメートル）。このため県は、四十八年六月に市町村合併計画に基づき、同町に対し隣接の読谷村（面積三五・一七平方キロメートル）との合併を勧告したが、無視された。現在、同町は水道行政でさえ沖縄市に依存しており、財政自体も約八〇％が基地交付金をはじめとする国庫補助に依存している。  <br />
  町長は「町民は米軍基地があるがために打ちひしがれている」と発言、国に直訴して地域活性化のため那覇防衛施設局を同町に移転させることになった。また、昨年十二月、同町は基地所在市町村への傾斜配分交付金を利用して、町内に使用を限定した商品券まで発行している。ところが同町商店街が停滞している原因は近隣北谷町に大型店舗ができたことであり、さらにはドル安でかつてのように米軍関連収入が低下したことにあるのだ。  <br />
  では、基地なければどうなっていたであろうか。北谷村嘉手納の大半は明治四十三年七月まで琉球藩主尚家所有の土地でもあった。そこへ本土資本の製糖工場が建てられ、また翌年には那覇より県立二中（現在の県立那覇高校）が移転設立された。このため同地域は一時盛況を呈するかに見えた。ところが昭和五年ごろより製糖工場と住民の対立が激化し、そこへ共産主義勢力までもが介在した。その結果、小作争議および工場内の労働争議が頻発、工場の生産性は低下の一途をたどる。また二中への進学者も激減し、大正七年には廃校寸前になった。  <br />
　
現在もし、この製糖工場が存続していたならば、折からの農作物自由化の波を受け、廃業に追い込まれていた可能性は否定できない。かつて当地はマラリア、フィラリアなどの寄生虫病が蔓延し、住民は塗炭の苦しみを舐めていた。戦後、米軍政の結果これらの害虫は根絶され、人口も増加したのである。　　　　　　　　    <br />
　
嘉手納町長の行政手腕は評価されて然るべきだが、基地交付金などのメリットをより広域的に運用すれば本当中部全域の活性化にもなるのだ。    <br />
　
以上一例を示したが、今後、県は県民への啓蒙活動を積極的に行い、市町村の統廃合を促進しなければならない。その範囲は沖縄が観光地としてよく引用するハワイの行政区に倣って少なくとも四市郡に統合すべきである。（ハワイ人口百二十九万八千八百人、平成八年現在）    </p>
<p>　鉄道建設による人口の適正配分  </p>
<p>　沖縄本島を縦断する本格的な鉄道を建設することは、県民の戦前よりの悲願であった。戦前は県営の軽便鉄道が本島中部の嘉手納まで敷設されていたが（沖縄戦で消滅）、当時の県の財政力では、それさえようやく維持する状況であった。昭和四年には、帝国議会に地元選出代議士がその国営化を陳情している。  <br />
  　
  沖縄本島の人口は百十九万八千七十八人、うち約八一％が中南部に居住している。しかも本当は長方形の形をしていて、県都・那覇市に空港、港湾などが集中し、それがほぼ本島の南端にある。このため島のポテンシャルを高めるには本島北端まで鉄道を建設することが急務である。とりわけ南部地区人口密度千五百四十人（一平方キロメートルあたり）、最近有名になった普天間海兵航空基地のある中部が千六百七十人。これに対し、北部など人口密度わずか百五十一人である。一方、沖縄の人口増加率四・二％は全国一であり、この人口偏在に拍車をかけている。しかも車依存社会の沖縄に，最近は観光用レンタカー約八千台が那覇を中心に稼動するようになっており、中南部における交通渋滞は産業振興に大なる障害となってきた。  <br />
　
沖縄本島における人口の適正配分の必要性は、もう一つの事由がある。沖縄では大地震の発生とそれによる津波の危険性が絶えず指摘されてきた。そのメカニズムは、琉球海溝付近にあるフィリピン海プレートに歪められたユーラシアプレートが復元するときに起こるのだ。沖縄本島がそのプレートの縁にあるため、阪神大震災のような直下型地震も十分起こりうる。    <br />
　
去年五月に石垣島沖合いでマグニチュード七・六の地震が発生、明治四十四年に発生した本島南西沖地震がマグニチュード八・０、明治八年（一七七一年）、多良間南方沖で発生した地震はマグニチュード七・四を記録している。とくに多良間沖地震の際には地震のあと大津波が襲来し、県下で約一万一千九百人が死亡している。（阪神大震災はマグニチュード七・二の直下型）    <br />
　
平成八年七月、県が東京の財団法人消防科学総合センターに地盤分析や活断層、建物強度分析を依頼したところ、とくに那覇を中心とした本島中南部の埋立地の地盤に液状化の危険性がきわめて高いと指摘されている。    <br />
　
県防災会議（会長は県知事、自衛隊、警察等で構成）が阪神大震災ののち、県下で発生した震度と震源地分析をベースにシミュレーションしたところ、マグニチュード七・二から八・０の地震が本島近海で発生したと仮定した場合、死者千人以上、負傷者三千七百人、避難者六万人以上という数字が出た（平成九年九月）。しかも、このシミュレーションには津波による被害は除外されていたのだ。    <br />
　
沖縄の市街地は都市計画の策定もなく戦後、無造作に建設された所が多い。この結果、火災など二次被害をさらに拡大させることになる。万一、沖縄で大地震が発生したときには、阪神大震災発生直後のように他府県より陸路での応援は不可能であるため、人身の被害はさらに拡大することになるのだ。    <br />
　
以上のことから、沖縄のポテンシャルを高めるには本当北端から那覇まで約百キロを三十分から四十分で走行する高速電車を運行させて北部全域を那覇の通勤圏に入れることだ。折りしもバブル経済が終焉し、また大型店舗の郊外進出で既存の市街地は閉店店舗が相次いでいる。このため駅建設と同時にこれらを再開発し、また市町村の統廃合を併せて実施すれば沖縄の近代化は一挙に促進することになる。    <br />
　
普天間基地の北部移設で世論を二分しているが、このような発想のほうが問題解決は容易ではないだろうか。    </p>
<p>　もし米軍基地が大幅削減されたら  <br />
  　  
  <br />
  　
  以上、沖縄問題について早急に改善すべき点を列挙したが、県民は歴史を冷厳に分析すべきだ。沖縄戦によって戦前の史料の多くを焼失しているため無理もない話であるが、県民が近代史を知っていれば失敗を犯さずに済んだ事例は枚挙にいとまがない。  <br />
  　
  とくに大正十三年、沖縄経済の破綻の主因となった大正バブルと、平成三年をピークとしたバブルは、前者が本土資本による沖縄産砂糖への投機であり、後者がリゾート・不動産であった。いずれも根底には第一次世界大戦、冷戦終結という世界経済のサイクルがあったのだ。もしこの歴史の教訓を分析した職者が県内に一人でもいたならば、平成バブル崩壊による県経済のダメージは限定できたであろう。  <br />
  　
  また、ミクロ的視点で見ても、平成十五年開業予定の沖縄都市モノレール事業（総事業費千八十億円、県・那覇市共同出資による事業）など、大正三年五月に那覇市内に開業した路面電車（沖縄電気軌道株式会社、昭和八年廃業）の失敗を学んでいれば、より慎重なプランニングができたはずである。  <br />
  　
  ところで、沖縄社会は世界がグローバル化するなかで、独り逆方向に進行してきた。  <br />
  　
  戦前、県内には百四十七銀行（現在の鹿児島銀行）や勧業銀行が進出しており、広島、山口、鹿児島出身者の経営する企業が沖縄に展開していた。彼らの資本とベンチャー精神こそが尖閣諸島などの開拓や産業を創設していったのである。  <br />
  　
  戦後、琉球政府は沖縄域内人口増加率一四・三％、人口も戦前県内人口のピークを約三六％上回る八十万千六十五人（昭和三十年当時）を記録していながら、過小資本の地元企業を民族資本と称し、県外企業の沖縄進出を抑制した。そこで米国は沖縄をドル経済圏に入れ、外銀二行の沖縄支店開設を強行するなど外資による沖縄経済の活性化を図ったのだ。このとき地元ゼネコンも厳正な米軍の入札制度と工程管理に対応し、本土や外国のゼネコンと互角に競って大型工事を受注していたのである。  <br />
  　
  ところが、復帰後の政治主導型の経済体制は社会の進歩すら阻害している。現在、県内総生産のうち、製造業によるものは七％（全国平均二五％）にまで漸減しており、雇用者三名以下の小売り赤字企業が県内企業総数の過半を占めている。また県内建設工事コストも政治誘導型の公共工事が主流となったため、労務単価など九州平均より二二％高くなっているのだ（とび工等）。  <br />
  　
  シンガポールはかつて英国の統治下にありながら、独立後も英語を公用語にするなど、その利点をいち早く応用し、アングロサクソン流のマネジメントを定着させた。そして最近、近隣諸国の経済危機で自国のコストが相対的に上昇したため、競争力検討委員会の提言に基づき国内の労働者平均賃金を一律一五％引き下げ、また電話料金を含む公共料金、地方税等を引き下げるなど競争力の維持に努めている。そればかりか理工系の人材育成にも成功し、労働集約型から技術集約型の産業構造に転換しつつあるのだ。  <br />
  　
  いま沖縄には二十三項目にわたって税制の優遇措置がある。さらに今度は県外企業を誘致するためとして、法人税の軽減を含む特別貿易地域の建設が進められているが、特別措置がかえって高コストを生み、アジア諸国ととうてい競争できる状況にない。しかも平成十四年三月末、その基本法である沖縄振興開発法の期限も到来する。ここで県民は四回目の延長を懇請する以前に、従来の発想を根本的に転換する必要がある。  <br />
  　
  このままでは将来、米軍基地が大幅削減されたとき、沖縄はまた戦前と同様の歴史を繰り返すことになるであろう。  <br />
  　
  スペインの哲学者オルテガは、政治家に最も必要な資質は「歴史的直感だ」と発言したが、民主政治においては何よりも大衆がその直感をもつことである。  <br />
</p>
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            <link>http://www.bushido-seishin.com/journal/j_016.html</link>
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            <pubDate>Mon, 26 May 2008 23:39:14 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>またしても「辻の遊郭」に消える「補助金」か、沖縄　「諸君！」（1998・平成10年8月号）</title>
            <description><![CDATA[<p>杜撰な行政を基地問題で糊塗し、補助金に甘えてきた報い </p>
<p>沖縄はこの冬、破産する </p>

<hr width="100%" />
<p>平成七年九月、米海兵隊員による沖縄小学女児暴行事件が発生して以来、日本中が沖縄・反基地勢力に振りまわされてきた。ところが平成不況が深刻化すると、沖縄問題はマスコミの俎上から消え、鎮静化したかのように見える。 </p>
<p>しかし、問題はこれからである。今度は県経済の破綻を震源とした混乱が、再び国政を揺るがすかもしれないのだ。 </p>
<p>沖縄経済は、早ければこの冬にも金融クライシスが襲うと思われるほど深刻な状況にある。いま沖縄県民の預貯金残高は約四兆千八百八十八億円（全都道府県中最下位）であるのに、借入合計は約四兆四千六百二十四億円（同二十八位）とオーバーローンになっている。このような現象は、東京、大阪と沖縄だけである。とりわけ多重債務による調停事件が激増し、すでに人口一万人当り六十五件と、全国一を記録している。 </p>
<p>加えてバブル経済時代に約一兆五千億円(平成三年当時)もあった本土金融機関からの融資が、バブル崩壊で急速に回収され、現在、融資残高は約四千二百三十五億円まで縮小している。 </p>
<p>最も懸念されるのは、最近の金融危機の影響で、さらなる融資の引きあげが起きることだ。とくに懸念されるのが長信銀三行の融資残高合計の一千四百十一億円(日本長期信用銀行が三百六十九億円、日本興行銀行が三百七十八億円、日本債券信用銀行が六百六十四億円)と信託銀行の融資残高合計の五百六十三億円である。 </p>
<p>実際、昨年の北海道拓殖銀行の経営破綻、そしてこの六月の長銀の救済合併の発表で、これらの融資は徐々に引きあげられはじめ、県経済は停滞し、県内失業率は八・二％と戦後最悪の数字を記録している。 </p>
<p>すでに地元銀行の預貸率は上昇しており、いま以上の本土金融機関の合併、閉鎖が起きれば、すでに融資の肩代わりが限界にきている地元銀行では対応できず、県内主要企業の倒産にはじまる金融秩序の崩壊で、沖縄経済は破綻するであろう。 </p>
<p>&gt;これに対して県に何ができるのかといえば、県自身が無軌道に乱発してきた県債の償還が困難になり、かえって地元金融機関に金利の大幅減免を要求している体たらくであるから何をかいわんやである。まさに沖縄は破産前夜の様相を呈しているのだ。 </p>
<p>　 </p>
<p><strong>山一証券と同じ道</strong> </p>
<p>　 </p>
<p>　沖縄はどうしてこんなことになってしまったのか。戦後、沖縄は基地問題を巧みに利用してきた。一連の反基地問題を巧みに利用してきた。一連の反基地運動で主張されてきた「米軍基地の存在が沖縄の経済発展を阻害してきた」というドグマをかざし、それを国庫補助で埋め合わせるのは、国家の当然の義務であると主張してきた。 </p>
<p>これは事実にまったく反する。今日の沖縄経済の困窮はひとえに「自立心」に欠ける県民性の所産であり、政府はそれを助長してきたにすぎない。 </p>
<p>沖縄は本土復帰後の二十五年間、国民の贖罪意識に甘え、基地イコール悪というイメージに便乗し、県行政の怠慢をすべて基地問題で糊塗してきた。それに対して政府も沖縄の構造改革にふれることなく、沖縄振興の大義名分に補助金の増額という手法で今日まで沖縄問題への真剣な対応を回避してきたのだ。しかし、いまこれが限界にきている。 </p>
<p>沖縄経済は破綻した前途がある。にもかかわらずいま再び沖縄が経済危機に直面している姿は、山一證券の倒産を彷彿させる。山一は昭和四十年の証券不況で経営が破綻し、日銀特融で救済された。しかし、その原因も何ら反省することなく、大蔵の保護行政に甘え続けた。そしてついには倒産に至ったのである。 </p>
<p>平成七年以降、約二年にわたった沖縄の反基地闘争も、結局は政府の沖縄振興策を引き出すと、一応は鎮静化した。 </p>
<p>しかし、これは問題の先送りにすぎない。平成八年、政府は、まず同年八年に、梶山静六官房長官の私的諮問機関として設立された「沖縄米軍基地懇談会」（座長）島田晴雄慶応大教授）が、わずか三ヶ月で答申を出し、「米軍基地があるために県民に閉塞間がのしかかっている」と、反基地勢力のドグマを代弁したうえ、「基地所在市町村に対し数年以内に数百億円から一千億円規模の事業を予定する」と発表した。 </p>
<p>また平成九年度予算から交付金に基地交付金が新設され、政府主導の公共事業において当該市町村の負担部分がなくなっている。 </p>
<p>さらに八年九月に橋本龍太郎総理自身が沖縄を訪れ、「沖縄県民の負担に反省とお詫びをする」と演説し、さらなる沖縄振興策の実施を名言、大田昌秀沖縄県知事と十七回も会談して、反基地勢力に屈伏したともとれる対応に終始した。同年九月には沖縄振興策のためとして特別調整費五十億円をも提示している。 </p>
<p>そして政府は今年三月、沖縄県の要求する国際都市構想を受け入れ、特別自由貿易地域制度の創設を主軸とした改正沖縄振興開発特別措置法を成立された。企業誘致のため、沖縄自由貿易地域に進出する企業に対し、現行法人税を約三五％に減免するといった法律で、まさに一国二制度の実現である。 </p>
<p>繰り返すが、沖縄の経済的な苦境は基地があるためではない。むしろ乱脈な県行政のため、いつ破綻してもおかしくないところを、基地からの収入のおかげで凌いできたというのが実情である。それゆえ、地元財界は従来、無軌道な反基地勢力を牽制してきた。 </p>
<p>ところが一連の政府の安易な妥協の結果、その財界の一部はこの特別処置に乗じて一儲けをしようと反基地勢力と連帯しはじめたのだ。 </p>
<p>彼らは今や沖縄自由貿易地域を県下全域に拡大するよう要望している。そして全県自由貿易促進期成会なるものが、県民に、「この制度が全県的に適用されれば消費税を含む個人課税でさえ不要になる」と吹聴することしきりである。 </p>
<p>山一でいうなら政府、大蔵省が加担した「飛ばし」によって問題を先送りし、社内改革の芽が摘まれてしまったのと同じである。しかし政府、大蔵省はついには山一を支えきれず、山一は倒産した。日本中は平成不況に喘ぐいま、沖縄の前途も同じであろう。 </p>
<p>民間企業である山一でさえ、倒産するときには「社内調査報告書」で政府、大蔵のやり方を痛烈に批判した。ましてや沖縄の場合は、再び経済クライシスを基地問題に転嫁する恐れがあるのだ。 </p>
<p>　 </p>
<p><strong>「辻の遊廓」に消えた補助金</strong> </p>
<p>　 </p>
<p>沖縄は復帰後の二十五年間で、約五兆円もの補助金を振興開発費の名目で国から受け取ってきた。にもかかわらず沖縄経済の構造は一向に改善されていない。国民の血税はどこへ消えたのであろうか。 </p>
<p>大正バブルの崩壊で沖縄経済が破綻した際も、結局、時の政府は沖縄への巨額の補助金交付を決定した。そのことを大阪毎日新聞の記者、下田将美氏は、昭和二年に、『琉球よどこへ行く』と題して、紙面で痛烈に批判している。 </p>
<p>「過去の苦痛を振るい落とすべき救いの手は下りつつある。されど心せよ。この時に汝が精神的に目覚めずば、救いの手は却って汝を救うべからざる地獄に陥し入れるであろう」 </p>
<p>「島国根性のあらゆる欠点は琉球において見出される。排外の狭い考えからいかに琉球の人々はひがんだ想いを内地に寄せているか。しかも口を開けば救済々々と叫び、一を得て二を望み、二を得て三を望む。自ら額に汗して勤めることを嫌い、ただ外部よりの救いの手を得ようとする。かような考えの改まらぬ限り恐らく政府の救済も水の泡となろう。五百万円の莫大な金（筆者註：産業助成費等）は、言いかえれば国民の血の汗との結晶である。（中略）二百五十万円の（沖縄）興業銀行への融資が結局は辻の遊廓を一時賑わすにすぎぬのではないかと憂うるのは一人私ばかりではないだろう......」（一部現代仮名遣いへ変更） </p>
<p>いま「辻の遊廓」はない。しかし県行政そのものが「辻の遊廓」の役割を果たしているのだから、より深刻である。 </p>
<p>日本国民の税金がどういう形で浪費されているのか、いくつかの事例をあげてみよう。 </p>
<p>まず最近、県が着工した建築構造物（いわゆる「箱物」）について見てみる。 </p>
<p>まず平成十一年完成予定の「平和資料館」である。この不況下に総工費八十億円をかけた壮大な計画で、展示面積は現資料館の約五倍に拡大されている。 </p>
<p>また平成八年より使用されている「南部（地区）合同庁舎」は中古ビルを二十八億円で購入したものだが、これが不当に高い価格で購入しているうえ、県庁よりわずか九百五十メートルの位置にあり、「公金の不当使用」として、県民から告訴されている。 </p>
<p>総工費四百十二億円の「沖縄公文書館」は平成八年に完成したが、現在にいたるまでの一日当りの平均入館者はわずか六名である。今年四月に完成した県民地下駐車場は総工費四十九億円、二百台の収容能力を誇るものの、利用率は低迷を続け、県民から批判されている。 </p>
<p>また県営住宅についても、新築物件千五百戸が空室のまま放置されている。この数字は過去三年間に新築した戸数に匹敵している。つまりこの三年間は、必要もない県営住宅を作り続けたことになる。これらは管理費だけで年間二十三億円もかかっているのだ。 </p>
<p>極めつきが今年五月に完成した知事公舎である。約７億円の巨費を投じて作られたこの公舎は、面積で全国知事公舎平均の一・五倍という広さで、三百五十万円もするサウナが備えつけられている。 </p>
<p>このほかにも「女性会館」「工業試験センター」等、不要不急の「箱物」が林立しているのが沖縄の風景なのである。 </p>
<p>それだけではない。沖縄県の外郭団体は現在、六十一を数え、大都市圏を含めた全国で六位という多さである。これは大田県政になって十七団体も増えた結果である。なかでも「県文化振興会」、「女性団体」、「亜熱帯総合研究所」、「アクアパーク」、「マリンジェット観光」については、その運用目的にさえ県民から疑問が呈されている。 </p>
<p>また沖縄県財政の歳出を見ると、その義務的経費の大きさに驚く。当初予算の約半分がそれによって占められている。なかでも人件費が大きく、単年度で約二千四百億円（歳出の約三三％）が当てられている。 </p>
<p>どうしてそういうことになるかといえば、一つに県職員の給与の高さがあげられる。沖縄県の一般行政職の平均給与は三十五万四千九百円で、国家公務員平均の三十万九千三百九十二円を大きく上回っている。大田知事はことあるごとに県民所得が全国平均の七割しかないことを口にするが、県庁職員にかぎっては、それは逆なのである。 </p>
<p>また職員構成にも問題がある。県庁内部にいる部長級の職員の数は現在二十六人で、これは福岡県並の数（二十一人）であり、県民一万人あたりの役付き職員に換算すると沖縄が二十四・六人に対し、福岡が九・四人と圧倒的に多くなっている。県庁から外部団体に出向して部長級の待遇を受けている者まで含めるとこれは四十六人に膨れ上がり、財政状況が類似している島根県の三倍もの数字になる。 </p>
<p>「魚は頭から腐る」というが、これらの浪費の元凶が大田知事であるのは明らかだ。 </p>
<p>知事は今年五月までに合計七回も渡米しているが、それにかかった総経費は二億二千万円以上にのぼっていた。 </p>
<p>基地所在市町村もこれにならい、国庫補助に甘えるところが目立ってきた。とくに読谷村は九年三月、総工費二十一億円も費やして地上三階、地下一階、総面積約八千五百平方メートルの新庁舎を米軍基地内の国有地に新築した。落成式で山内徳信村長(現在は沖縄県出納長)は「自治と平和と民主主義の殿堂」と自画自賛したものの、この建築費には防衛庁補助がなされている。また読谷村は歳入の一二％を基地関連収入に頼っているのだ。 </p>
<p>ここで沖縄の最初の経済破綻を振り返ってみたい。昭和金融恐慌の三年前に当る大正十三年十二月、沖縄では当時のバブル経済が崩壊し、沖縄にあった地元銀行三行すべてが倒産した。同時にそれまで膨張を続けていた市町村財政も破綻し、沖縄はまさに自己破産状態に陥ったのである。 </p>
<p>バブルの起こりは、大正八年六月頃から、当時国内二位の商社であった鈴木商店をはじめとする大手が沖縄黒糖への投機をはじめたことにあった。加えて日頃、沖縄に関心を寄せていた政友会の原敬総理政権下とあって、那覇港の拡張工事など大型の公共工事が実施され、バブルを煽った。 </p>
<p>当時、ジャーナリストの太田朝敷氏はこう表現している。 </p>
<p>「この二年間に都鄙（とひ）ともにわけもなく景気に陶酔し、馬の糞でも犬の糞でも買っておけば必ず儲かるといわれた位で、土地であれ、家畜であれ盛んに思惑が行われ、一時は各所に小成金がうようよ出来た（後略）」（『太田朝敷選集上巻』）。 </p>
<p>大正十三年六月、地元銀行の経営内容を危惧した県知事が大蔵省に特別検査を依頼したところ、三行融資総額七百三十二万八千円のうち、実に回収不能額合計が二百七十万円、不良貸し合計が二百二十万円という実態が判明した。しかもその原因は縁故（門中）への情実融資と政党への癒着融資であり、とくに旧沖縄産業銀行は政友会、旧沖縄銀行は憲政会の機関銀行の様相を呈していた。 </p>
<p>　 </p>
<p><strong>植民地を望んだ沖縄</strong> </p>
<p>　 </p>
<p>バブルが崩壊し、とりつけ騒ぎの中で地元三行は相次いで営業を停止、県経済は混乱し、預金者にはショックの余り自殺する者もでた。農民は食料を買う金さえなく、自生するソテツの実を食べて飢えを凌ぐ状態であった。中にはそれに含まれている猛毒サイカシンを誤飲し一家が全滅するという悲劇も起こったのである。 </p>
<p>そこで大正十四年より政府は沖縄救済策を実施し、閣内に琉球経済振興委員会が設置され、国家予算に沖縄産業助成費、工業助成費、産業振興資金などの名目で合計七百五十二万九千が計上された。さらに昭和二年には倒産した三行を合併して設立された沖縄興業銀行の資本金に公的資金二百五十万円が充当されている。（同行は昭和二十年閉鎖）。 </p>
<p>そして大正十五年、沖縄県選出の国会議員四名が帝国議会に沖縄経済救済に関する建議案を連名で選出している。その一筋を紹介する。 </p>
<p>「財政救済の点については、<U>多少植民地行政の長所を加味し</U>、この際とくに担当の税源を沖縄県に委譲せられ積極的にその救済ならびに助長開発を計るのが最も策の得たるものと信じ（略）」 </p>
<p>さらに県内世論のひとつと前置きして、「或人は、植民地の如く特別会計に改めて貰いたいと論じている」 </p>
<p>という文言さえ付記している（傍線部筆者）。 </p>
<p>大正から昭和にかけての地方の困窮は沖縄だけでは決してなかった。とくに東北、北海道地方は昭和六年に凶作に見舞われ、飢餓人口は五十万人を超え、さらに翌年には同地方を水害が襲い、餓死者が続出しているのだ。しかしどの地域からも沖縄のような特別措置を求める陳情はなかったのである。 </p>
<p>しかし政府は沖縄の生産基盤を整備するため、昭和七年、帝国議会において沖縄振興十五ヵ年計画を法制化した。しかしその成果を見ぬまま、わが国は大東亜戦争に突入し、昭和二十年、沖縄は地上戦と相俟って、戦前の社会システムが消滅した。 </p>
<p>　 </p>
<p><strong>米国のガバナンスに学べ</strong> </p>
<p>　 </p>
<p>　昭和二十年四一日、沖縄に上陸した米軍は北緯三十度以南の南西諸島に対し軍政の施行を宣言する。そして二十四年以降は、東西冷戦の激化で沖縄を中ソを睨む最前線基地として使用することを決定した。 </p>
<p>　こうして米軍統治の時代がはじまるが、元総理の芦田均氏が、「米軍の統治のおかげで原住民の生活は向上した。日本の統治ではこうはいかなかっただろう」（昭和三一年六月二十八日付「東京新聞」）と発言しているように、沖縄経済は米軍統治によってはじめて好転していく。その根底には金融システムの安定を統治の最重要課題とした米軍のガバナンスが奏功していたのだ。 </p>
<p>　ここで特筆したいのは、沖縄米軍は当初、大量の援助を沖縄に提供したが、それに止まらず、沖縄経済の本質を変革したことである。 </p>
<p>　昭和三十年時代沖縄経済は、米国の援助に加え、日本政府の援助が拡大したこともあって順調に推移し、年平均一六％前後の高成長率を維持していた。 </p>
<p>　ところが、米軍政府は沖縄金融機関の乱脈経営とその監督義務を遂行しない琉球政府および司法機関の怠慢に県民性を見抜いた。癒着による不正融資が横行しており、放任すればいずれは大正末期のように沖縄社会を瓦解させる危険があると判断した。 </p>
<p>琉球政府主席は、昭和三十八年九月から十一月にかけて、米軍政府から強い抗議を受けた結果として、各金融機関に「政治献金の全面禁止」「（金融機関職員の）融資の際の金品の受領禁止」などの綱紀粛正を促す通達をようやく出している。 </p>
<p>　一方で米軍政府は徹底した不正摘発を行った。 </p>
<p>　米軍政府は昭和三十四年、米本国から金融行政の専門家を招き、域内の金融機関を調査させたところ、琉球銀行を除く各金融機関の杜撰な経営内容が発覚した。同政府は直ちに「厳重警告」発するとともに、三十六年には琉球政府内に金融検査部（四十一年に庁に昇格）を設置させている。 </p>
<p>　ところが同部の人事権が琉球政府主席の掌中にあるため、金融監督権や逮捕捜査権を与えてもなかなか発動されなかった。 </p>
<p>　そこで昭和三十七年、沖縄統治権者高等弁務官キャラウェー陸軍中将が乗り出し、その結果、銀行の頭取を含む三行の役員を背任行為で逮捕、公的機関を含む沖縄全金融機関役員六十五名を退任させた。 </p>
<p>　このショック療法が功を奏し、翌三十八年、同部が銀行整備五ヵ年計画を発表したところ、各金融機関は従来の安易な姿勢を改め、ただちに従った。その結果、当時、沖縄にあった地銀二行、相銀七行、保険会社四社のうち三十九年四月までに相銀、保険会社それぞれ二社に統合されたのである。 </p>
<p>　高等弁務官による行政指導はこれだけにとどまらず、自己利権に固執する沖縄財界への啓蒙活動を行い、米政府が筆頭株主である琉球銀行に対しても「昭和初期の日本の銀行形態を未だ続けていると」批判し、三十八年の株主総会で総裁以下四名の重役を解任、役員賞与の高配当を指摘し、欧米水準まで引き下げさせている。 </p>
<p>　さらに地元金融界の猛反対を押してアメリカン・エクスプレス、バンク・オブ・アメリカなど外銀の沖縄支店開設を認可し、地元金融界の閉鎖性を打破した。この結果、金融界は活性化し、昭和四十七年の本土復帰際にはこの沖縄金融機関の安定こそが県民の不安と混乱を防止したのである。 </p>
<p>　戦勝国による強権発動といえばそれまでであるが、「甘え」と「馴れ合い」の害毒に冒された沖縄にとって、米軍政府の施策はまことに適したものだったのである。 </p>
<p>　 </p>
<p><strong>復帰後の失政</strong> </p>
<p>　 </p>
<p>　ところが復帰がなされると、米軍政府が育んだ気風は一気に失われ、沖縄経済の改革は元の木阿弥になってしまう。 </p>
<p>　復帰の二年前の昭和四十五年三月、総務庁長官山中貞則氏は、衆議院予算委員会で「沖縄の金融機関の整理統合」について発言し、沖縄財界を慌てさせている。沖縄財界は、「復帰にともなって県内企業は本土との競争にさらされる。油断すれば戦前のように沖縄経済は県外出身者に席巻されるのではないか」と危惧したのだ。 </p>
<p>　またこの年、米軍政府は琉球銀行株を民間に放出することとなり、バンク・オブ・アメリカなどの外銀がこの取得を希望していた。ところが大蔵省は米国大使館を通じて株購入の動きを阻止した。さらに日本政府は復帰の際、本土金融機関に通達を出して沖縄への出店を禁止している。 </p>
<p>　そして沖縄開発庁を設立し、沖縄県の年度予算は同庁が一括計上することとなった。そのうえ県下企業を保護するとして法人税の軽減など税制面での優遇策を目的とした復帰にともなう特別措置法および沖縄振興開発法などを制定した。これらは五年の時限立法として制定されたものの、地元財界の懇願ですでに五回も延長され現在に至っている。 </p>
<p>　その結果、沖縄の構造改革は放置された。県内企業はいまだ第三次産業に偏重しており、ほとんどが雇用者三名以下の零細企業である。平均自己資金比率も本土平均の半分以下にすぎず、過半数が赤字経営である。県内製造業の売上高に占める研究開発費も本土平均の十分の一以下（０・三％）と極端に低い。 </p>
<p>　国がいくら公共工事を実施しても、地元企業は技術力の面から下請けにならざるを得ず、県内への資金の歩留りは極めて悪い。 </p>
<p>　また琉球王国に回帰するかのごとく、貧富の差も拡大し、県民所得は全国平均の七割と言われながらも一千万円以上の高額所得者の数では全国十八位という現象も起きている。 </p>
<p>　県内で唯一ベンチャービジネスに成功した韓国出身の全泰源氏は「沖縄では新しい企業が出てきても経済界は公共事業や既得権益で食べており、出る杭はすぐに打たれて潰される」と発言している（「琉球新報」平成八年十一月十四日付）。 </p>
<p>　しかしこのような状況にあっても県民に危機意識がなかなか起きないのは、沖縄が現状情報社会に取り残されているからだ。 </p>
<p>　沖縄は『沖縄タイムス』『琉球新報』の二紙で県内シェアの九三％を占めるという寡占状態である。しまも両紙ともに基地問題と反国家的テーゼに紙面のほとんどを割いているのだ。 </p>
<p>　 </p>
<p><strong>三つの抜本的な改革</strong> </p>
<p>　 </p>
<p>　いま沖縄はまさに政治バブルの頂点にある。しかし経済破綻に端を発した政治バブルの終焉は沖縄社会に大変な混乱をもたらし、また、わが国のガバナンスは世界に問われることにもなる。政府はこれに対処するためにも、補助金ではなく、とにもかくにも沖縄の抜本的な構造改革に着手すべきである。 </p>
<p>　そのためには、まず沖縄金融界の再編強化により沖縄社会の最低限のフレームを確立した後、「一、沖縄マスコミによる市場寡占状態の打破」「二、沖縄開発庁および沖縄特例の廃止」「三、琉球大学以下の県内公的教育機関の教員レベルアップ」などを早急に実施すべきだ。 </p>
<p>　とくに沖縄には米軍特別軍属として約八百名の米国人が基地内大学や小中高で米軍人子弟相手に教鞭を取っている。ここで特例として県民子弟を選抜して小学校から基地内の教育機関へ進学させてはどうだろうか。 </p>
<p>　教育は一朝一夕になるものではない。人材教育は小学校から始めなくてはならない。現在、沖縄の指導的地位にある人たちは、かつて米軍統治時代に米国留学をはじめ本土の一流大学へ特例で進学するという最高の恩恵を受けてきた。しかし後進の育成を怠った結果、県下の教育レベルは依然低迷し、大学入試センター試験でも、連続して全国最下位、高校中退率は最高という体たらくである。 </p>
<p>　しかし経済破綻は教育の成果をもってはくれない。だからこそ、政府はまず米軍統治に倣い、強い意思でこれらの改革を推進すべきなのである。それを通じて沖縄にも「自立心」が育ってくることを私は期待したい。 </p>
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            <pubDate>Mon, 26 May 2008 23:37:19 +0900</pubDate>
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            <title>「この20人を大論破！」文芸春秋「諸君」（平成10年、1998年・2月号）</title>
            <description><![CDATA[<strong>No4   大田昌秀---恵隆之介（ジャーナリスト）</strong> <br />
<br />
「本土に甘えられた頃はよかったが・・・」 <br />
<br />
　
これまで大田昌秀・沖縄県知事の言動を批判してきたが、先般沖縄で論議をよんだ米軍普天間飛行場の返還にともなう代替ヘリポート建設問題で示した知事の対応は、もはや行政官として失格である。<br />
　
平成9年11月21日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで「沖縄復帰25周年記念式典」がおこなわれた。橋本龍太郎首相は、普天間飛行場移設計画について、地元の理解と協力を求めると共に、沖縄経済振興策として、自由貿易地域の設置、法人税の軽滅、観光や情報通信産業を対象にした投資減税を実施していくという考えを明言した。ところが、大田知事は国に感謝することもせず、基地問題をことさら強調し、海上ヘリポート計画しついて、住民の反発も大きく厳しい状況であるとだけ述べ、あたかも反基地団体の代弁を行っているかの様な印象を与えた。<br />
　
そもそも、この名護市の海上ヘリポート計画は、大田知事が第一に希望した普天間飛行場の返還に応えて、日米両政府が県内移設を前提に合意したものである。それを知事は住民投票の結果が出るまで。これに関して発言しないというのである。県知事が、自ら提議した県の問題についてノーコメントとはまさに指揮官の敵前逃亡である。<br />
　
以前から沖縄県は「感情の大田、現実派の吉元」といわれ、主に「米軍基地撤去」だけを主張する知事と「全県フリーゾーン構想」などを打ち出し、基地問題とバーターして沖縄特例を引き出そうとする吉元政矩副知事の二人三脚で、沖縄県の行政を動かしてきた。<br />
　
しかし実際には、知事のエモーショナルな性格に政府は手を焼き、実質的な交渉の窓口は副知事となっていた。<br />
結果的に、この体制は二人が県議会を無視して暴走することになる。知事がそれ以前に「吉元氏の再任拒否は自分への不信任である」と見得を切っていたにもかかわらず、県議会が10月17日に吉元副知事の再任を否決したのは、吉元副知事が官邸の信任を得るにともない、知事の行政権の範略にまで入り始めたことへの反発でもあった。知事が「国際都市構想」や「全県フリーゾーン構想」などの夢にこだわっている間に現実の県経済は最悪の状況を迎えつつある。<br />
　
沖縄経済は、約23年に及んだ米軍統治時代には県内企業だけの競争で成り立っていた。そして昭和47年に日本に復帰した後も、このシステムは温存されてきたために、今でも県内2万6千2百件の事業所のうち約62パーセントは従業員が2人以下の零細企業で、業績も約50パーセントが小売業や飲食店などである。県内金融界も含め、国際競争どころか、本土企業とさえもまともに戦える企業は一社もない状態である。<br />
　
こうした状況で、平成元年ごろから沖縄に波及したバブル経済は、平成2年のピークには那覇市の商業地を坪1千300百万円まで高朦謄させたが、バブル崩壊とともに急落し、平成9年には坪約180万円になってもまだ下がり続けている。加えて最近では、全国的な不況にともない、本土の投資家が沖縄の行政能力を低さと、県民の労働生産性に見切りをつけ、撤退する者も出てきた。<br />
　
大田知事に少しでも経済感覚があれば、夢を語るよりも、まず自らが先頭に立って、県内企業の合併・強化、市町村の統合、都市計画の立案など、基地問題と前向きにリンクさせながら、21世紀に向けた沖縄の経済基盤の整備にとりかっかっていることであろう。<br />
　
ところが大田知事は、日米安全保障問題でとにかく窮地に立つ政府の弱腰につけこんで、予算だけを獲得した挙げ句政府との約束は履行しようとしない。<br />
　
元を正せば、大田知事をこのような「総会屋的」な行動に走らせたのは、政府にも責任はある。平成8年には、平成9年5月14日に期限切れとなる駐留軍用地特別借地法の改訂が内閣の重要課題となったため、政府は矢継ぎ早に沖縄関連予算を増額した。特に平成8年8月に設置された梶山静六官房長官（当時）の私的諮問機関「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」（座長・島田晴雄慶大教授）などは、座長自らが「米軍基地の存在により沖縄県民は、経済活動や人々の生活は著しく阻害され制約されている。また騒音や事故が多く、閉塞感が重くのしかかり・・・」と県内反基地勢力のテーゼを代弁し、わずか3ヶ月で答申をまとめ、「沖縄県および基地所在市町村に対し、今後数年間に数百億円前後の事業を予定する」と発表した。しかも従来の予算編成ルールを無視して、総額明示方式をとるように発言しているのだ。<br />
　
政府がこれほどまでに県内の反基地勢力や知事を甘やかしたために、もはや沖縄の戦後世代は政府が沖縄にいかに高額な補助金を付与したとしても、それを「見舞金」としてしか解釈できなくなっている。政府は自らまいた種で、今後も沖縄問題で苦悩していくことであろう。しかし、大田知事は依然として経済問題を基地問題に転嫁しようとするだけである。あまりにも沖縄経済の現実がみえていない。<br />
<br />
<strong>危機管理能力のない知事</strong> <br />
<br />
　
それだけだはない。大田知事は県民の安全を守ろうとする行政官の第一の義務さえ失っている。その一例を紹介する。<br />
　
平成9年1月1日、名護市で拉致された約半年間消息を絶っていた女子中学生が、8年末に逮捕された容疑者の供述通り山間部から白骨死体で発見された。犯行当日、県警のヘリコプターはオーバーホール中であったため初動捜査は難航したが、その時沖縄の自衛隊の大型ヘリが十数機待機していたのである。もし大田知事が出動を要請していれば少女殺害時刻の１時間前には、すでに自衛隊ヘリが現場上空に達していたのだ。<br />
　
その後の捜索活動も緩優に行われていたため、見かねた自衛隊から非公式に捜索支援の申し出がなされたが、知事はこれにも返答していない。<br />
　
知事は、7年9月に発生した米海兵隊兵士による女子小学生暴行事件の糾弾集会では「1人の少女を守れなくて申し訳ないと大演説をぶっておきながら、この事件に関しては何らコメントしていない。県民の命よりもイデオロギーを優先するとでもいうのであろうか。いくら大田知事が反戦団体の後援によって当選したとはいえ、県民の命が危機にさらされた時には、行政の長さとして自衛隊のみならず米軍にも協力を要請するくらいの危機管理能力をもつべきだった。<br />
　
また知事は、基地問題においては日米両国政府に強硬な姿勢をとりながら、中国には平身低頭する。<br />
　
例年10月になると、沖縄では中琉文化経済協会や台湾華僑による双十節が県内政財界人を招いて盛大に行われる。これに対して毎年、知事の挨拶文を県庁幹部が代読して祝意を表していたが、今年から突然これが取り止めになった。何故かというと、昨年6月に台湾行政院建設委員会副主任が、大田知事を表敬したが、その時の写真が地元紙に報道されるや、東京の中国大使館から抗議を受けたからである。対中国弱腰外交はこれだけではなく、尖閣諸島領有権に対しても中国に何ら言及しなかった。7年3月の中国危機の際には、台湾に隣接する与那国町民が不安を訴えているにもかかわらず、「中台関係は心配ない」とうそぶいていた。<br />
　
加えて昨年8月30日、琉球王統の第二十二代当主尚裕氏が逝去し、9月3日に東京で告別式がおこなわれた。大田知事はこの日、中国福建省へ沖縄県福建省友好締結式に参加するため、那覇空港を飛び立っている。当時県庁には2人の副知事がおり、1人はまったくスケジュールはなっかったにもかかわらず、告別式には代理出席もさせていない。<br />
　
知事は日頃「琉球は日本に滅ぼされた」という"被害者"としてのテーゼを展開している。そう思っているならば、なおさらこの悲劇の象徴である琉球王統の当主の告別式には参列して弔意を表すべきであった。そうすればきっと全国民に知事のいう"悲劇の沖縄"をよりアピールできたはずだ。それとも「沖縄は中国との関係がより重要だ」とでも思っているのだろうか。<br />
　
以前大田知事は、沖縄に住む米軍の高官に「知事を退任したら、長男のいるハワイにいって永住します」ともらしたことがある。最後はハワイで余生を過ごすというのなら、基地問題だけでなく、日米関係まで混乱させたり、沖縄問題に及び腰になるのも無理からぬ話である。沖縄県民は後世、大田昌秀氏を知事に選出したことを慚愧の念をもって振りかえることであろう。そのとき沖縄の